穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【読書録4】『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』岡本亮輔

 大学の教養の授業で宗教関連の講義を取っていて、勧められた本だったので読んでみた。内容としては、本来宗教的な聖地巡礼と観光が融合する現代社会の中で、宗教というもののあり方がどのように変容しているのかといったことを、具体的な事例を挙げながら説明していく、といったものである。

 本書では副題の通り、世界遺産のような明らかに古くからの歴史的な信仰が確認されているものから、アニメの舞台のように比較的最近のある時期から一部の人にとってある種聖なるものとして扱われるようになったものまでを取り上げ、聖地を訪れる人の心理や、聖地が聖地として成立するための条件、またそれらの時代的な変容などについて述べている。

 「聖地」というと、どんなものを思い浮かべるだろうか。今でこそ、アニメの舞台を訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶようになったが、本来の聖地というものを考えると、宗教の制度によって定められたもの(本書で言うところの「冷たい聖地」)を思い浮かべるのではないだろうか。

 しかし、そういった場所を訪れる現代人たちは、必ずしも該当する宗教に所属しているわけではないのである。思い返してみると、観光などで神社や仏閣、教会等を訪れることはあれども、その宗教に対する帰属意識のようなものは自分は持ち合わせていなかったし、その場所がなぜ聖地とされているかの詳しい知識もなかった。つまり自分は「信仰なき巡礼者」であったわけである。

 聖地巡礼において、自分のような「信仰なき巡礼者」が増えていることは本文中でも述べられており、それは世俗化によって宗教が人々の生活に与える影響が小さくなり、人々が宗教による普遍的価値観というものを持たなくなったことに由来するとされている。現代はいわば個々人がそれぞれの価値を選び取る時代となったのだ。

 世俗化が進んだ現代において、人々にとって聖地というものはどういった役割や機能を持つのだろうか。信仰心を持たない人が巡礼をすることは宗教的な行為と言えるのだろうか。超自然的存在が信じられなくなってきた今、聖地というものはどのようにして発生するのか。といったことが本文には書かれている。

 宗教と社会の関係は確実に昔のものとは違ってきている。宗教的なものが必ずしも伝統的な組織を必要としなくなった現代において、これからの時代の宗教と社会のあり方が、聖地巡礼のあり方に反映されていくのではないだろうか。

【読書録番外編】本を読むにも経験値がいるという話

 読書を始めてみて気づいたのだが、本の内容を100%完全に理解するというのはそう簡単なことではないように思える。僕が未熟なだけかもしれないのだが、自分が難解だと思って挫折した本のレビューやら感想やらをネットで調べて読んでみると「面白くて一気に読んでしまった」だの「○○についての考察がわかりやすかった」だの書かれていたりするので、読み切れなかった側からすると「それマジ?」と感じてしまうのである。

 そういった人たちと自分の何が違うのか、そもそもすべてを理解しようという考え自体が傲慢なのかもしれないが、基本的に今までの読書量と持ってる知識量が関係しているのではないだろうか。

 まず、読書量についてなのだが、要は読書に慣れているかどうかがその人の本の読みやすさを決めているのではないかということだ。慣れている方が長時間集中できたり比較的速く読むことができるだろうと思うのである。実際、僕はまだ本を読み始めて数冊なのだが、既に集中して読んでいられる時間がはじめの二倍ぐらいになっている。これが何十冊、何百冊ともなると、効果はもっと違ってくるのではないだろうか。

 僕の今までの読書量はおそらく、平均と比べてもかなり少ない方だと思われる。自分は主に漫画とゲームで読み書きを覚え、学校の勉強に使うものを除けば本など読んでも年に一冊あるかどうか、小説なんかも学校の教科書の題材になるもの以外はほとんど読んでこなかったのだ。

 少し話が逸れるが、僕は読書というものが、知見を広げたり、価値観を変えるのに有効な手段であると前々からなんとなく思ってはいたのだが、全くと言って良いほど時間を割いてこなかった。だからこそ今ごろになって本を読み始めており、見事にハマってしまっているのである。

 ともかく、僕の読書の絶対量が少ないために難しめの書物を読むのに手こずっているのではないかと思うのだ。

 もう一つは知識量である。僕は本のジャンルのなかでも人文書、とりわけ思想や哲学に関するものを読みたいと思っていたのだが、いざ手に取ってみるとまあなんとなくしか知らない用語や人名というものがたくさん出てくる。はっきり言ってほとんど何を言ってるかわからないものもある。

 しかし、新しい思想や考えというのはそれより前のものを元にしたり、批判したりするところから出てくるのだから、当然と言えば当然なのである。要は本を読むにもその背景というものを理解していないと、本自体も理解できないのだと思うのだ。

 哲学や思想のことを知りたいにせよ、文化のことを知りたいにせよ、経済のことを知りたいにせよ、その今に至るまでの背景というものを知るところから始めるというのが大事なのではないかということである。

 そんなの当然だよと思うかもしれない。僕自身も言葉では理解していたつもりであったのだが、本を読むという行為によって言葉での理解が実感に変わったのだ。

 読書量についてはこれからたくさん読めば良いとして、知識量について、今の自分の知識量で理解できるものなのか、もっと背景的なものを理解すべきなのではということを考えた上でこれからは本を選びたいという所存である。

【読書録2】『不幸論』中島義道

幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。世の中には、この錯覚に陥っている人と、陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることを諦めている人がいる。ただそれだけである。 

 著者の中島義道という男は相当ひねくれたものの見方をしていると思う。ネット上で彼の対談やコラムを見て、面白い考えの人がいると思って彼の著作は一度だけ読んだことがあった。今回改めて何か読もうと考え、適当に見繕ったのが『不幸論』だったというわけである。

 この本の趣旨は、世の中に蔓延している幸福論や、それを信じて疑わないマジョリティに対するアンチテーゼである。不幸論という題であるが、内容は幸福とは何か、それは成立するものなのかといったものである。

 正直批判すべき箇所や矛盾点もいくつかあるだろう。そもそもの著者の掲げた幸福の成立するための4条件(自分の欲望がかなえられていること、その欲望が信念にかなっていること、その欲望が世間から承認されていること、欲望の実現に際して他人を不幸にしないこと)が正しいのかというのも疑問である。また、彼の論は「人生というものは必ず死ぬ点において絶対的に不幸である」という価値観の下に成り立っているということも注意せねばならない。

 ただ、世の中で謳われている幸福の方法論や、幸福にならなければならないという考え、本当の幸福とは何か、幸福とは本当に存在するのかといったことに対して疑問を持っている人には納得できる部分があると思う。

 彼は幸福というものを自己欺瞞や感覚の麻痺によるものであるとばっさり切り捨て、そういった幸福(らしきもの)をとるのか、不幸という真実を見据えて生きるのか、という問題提起をしている。

 こういった論を展開する背景には彼自身の人生に対する美学があると思う。彼は、「人生というものは最初から最後まで圧倒的に不条理なものであり、そのことを考え続けること、目をそらさないで見続けることに価値がある」と考えているのだ。この価値観は多くの人間に当てはまるものではないだろう。だが、彼はこの態度を一貫して崩さない。

 「容姿の悩みとの付き合い方」でも書いたのだが、人生というものはそもそも理不尽なものであり、生まれつきの運というものによって、ある程度生きやすさが変わってしまう。いわば人生は不平等で、相対的な不幸というものが存在しているのだ。

 そこであえて人生の不幸というものを見つめ、受け入れてみる。「人生というものは必ず死ぬ点において絶対的に不幸である」のだから、それに比べれば相対的な不幸は些末な問題ととらえることができるのではないか。この本は結局そういうことを言いたいのではないだろうか。

【読書録1】『武器としての決断思考』瀧本哲史

 ブログの設立から一週間経ったのだが、決して本を読むことをサボっていたわけではない。このブログで最初に書こうと思っていた本はそのあまりの長さのために挫折し、 次に手を出した本は自分にとって難解であるがために挫折してしまった。このために最初の本を読み切るまでにかなり時間がかかってしまったのである。これらについてはいずれ必ずリベンジしたいと思う。

 大学の教養の講義でたびたび著者の瀧本哲史氏についての話を聞いており、なんとなくすごい人であるということは知っていたので、気になって図書館から彼の書籍を借りてきた次第である。

 この本はいわば、論理的な思考のための教科書であると思う。内容としては主にディベートの方法についての解説なのだが、著者の意図としては、読者たちそれぞれがディベートの方法論を自らの意思決定の際に用いることで、なんとなくのいい加減な思考から脱させ、周囲に流されず、自分の頭で考える人材を増やしたいということなのだと思われる。

 自分が何らかの主張をするとき、その根拠は明確であり、また、その根拠は反論に耐えうるものであっただろうか。また、自分の意見を発信する際、常にそのことを意識していただろうか。自分は読んでいて急所を突かれた気分になった。

 この本に書かれている思考の方法は、著者が一貫して述べていたことでもあるが、単なる知識として吸収するだけでは意味がなく、実際の判断に活用し、それを行動に起こしてこそ意味のあるものであると思う。実際の教養というものはそういった過程で身につくものなのだろう。

 常に正しい人間なんてものを目指すつもりはないのだが、本書の思考形態を体得し、著者の言う「自分で考えて、自分で決めていく人生」を歩んでいけたらと思う。

 

【読書録0】そうだ、本を読もう。

 人生における後悔や、やっておけばよかったことなどは数えてみればたくさんあるのだが、僕の古くからのコンプレックスとして、今までちゃんと本を読んでこなかったことがある。自分自身、教養のある方だとは思わないし、自身の価値観や考え方にこだわり、凝り固まった頭をしている方だと思われる。

 もちろん、「本をよく読んでいる=教養がある」という図式が成り立つとは思っていないし、教養をつけるために本を読もうだなんて、いかにも凡人の思いつきそうな陳腐な考えであるとは自覚している。それでも本を読みたいと思ったのは、読書という行為が、価値観や考え方を更新するのに一番手っ取り早い方法だと思ったからだ。

 本ブログでは、読書によって知識や価値観、考え方のアップデートを図り、アウトプットとしての記録をつけていこうと考えている。基本的には一週間に1~3冊、年に100冊以上を目標に、ジャンルを問わず興味の向いた本を読んで、その内容や感想をまとめていきたい。

 また、雑記としてなんらかのトピックについて、その時点での自分の意見を述べ、僕から見た世界や自分の価値観といったものを表現したいと思っている。正直、他人の読書感想文なんか読んだところでちっとも面白くないと思うので、何か興味の持てる話ができたらと思う。

 以上をもって挨拶と決意表明とする。