穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【雑談】死後の世界とかの考え方って便利だよねという話

 最近は成人式、同窓会や大学の課題のごたごたであまり記事を更新できていなかった。同窓会の帰りに友人と色々なことを話しているうちに帰りが朝の四時とかになったのだが、どんなことを話していたかと言えば一貫したテーマは「なぜ生きるか」といったことだったように思われる。

 「なぜ生きるか」という問いは誰もが一度は考え、その意味に悩んだことがあるのではないだろうか。もしかしたら昔の哲学者などがそれらしい答えを出しているのかもしれないが、僕は結局のところは、生まれたことにも生き続けることにもこれといって絶対的で特別な意味は存在しないと考えている。だからこそ人はこの問いに苦悩し、自分なりの意味というものを見出そうとするのだと思う。

 「死」とは意識が永遠に無となることであり、絶対的に不可逆的なものである。死ぬことそれ自体を知覚することすらもできない究極の虚無である。というのは間違っていないように思われる。意識を司るのは脳であり、その脳の活動が死によって停止するからだ。人個人の生は死んだ時点で終わるということである。

 ところが、こういった「死」についての虚無感に対抗すべき考え方を人類は生み出している。それが死後の世界や生まれ変わり、輪廻転生といった考え方だ。その考え方のもとでは人の生というものは死んだ時点で終わるものではない。「死」は死後の世界に行くことや別の生き物への転生などのための過程であって終着点ではないのだ。

 この考え方は「なぜ生きるか」という問いに対して「死んだ後のため」という絶対的な答えをくれる。死後の世界でより良い待遇を受けるため、より高等な生物に生まれ変わるため、といったものだ。

 こういった「死後どうなるか」といったことは多くの宗教によって語られている。これは「なぜ生きるか」という絶対的な答えがないにも関わらず、人が直面せざるを得ない問いに対しての人類の対抗策なのではないだろうかと自分は思ってしまうのだ。

 【読書録4】でも少し触れていたが、現代は世俗化という現象によって宗教による絶対的な価値観が効力を持つ時代ではなくなっている。本気で何らかの宗教を信仰している人には申し訳ないが、死んだあと実際に別の世界に行くなんて本当に思っている人はほとんどいないだろう。

 どちらが良いのかということは判断できないが、自分はそういった宗教的価値観が世の中を支配していた時代を少し羨ましく思う。そこには「死後の世界」が共通認識として存在し、だれもが「なぜ生きるか」という問いに対する共通の答えを持ち得たのではないだろうか。それともそういった世界にいたとしても共通の絶対的価値観というものに疑問を持っていたのだろうか。

 自分には自分だけの「なぜ生きるか」という問いへの答えがまだ見つかっていない。思うに、絶対的に信じられる何かがあれば人はそれを支えにして生きていけると思うのだ。それが生きる活力となり、支えになると思うのだ。自分にはその支柱となるべきものが存在していない。

 だからこそ自分はそういった支柱をもっている、つまり「なぜ生きるか」という問いへの答えがある人、または「なぜ生きるか」ということを疑問に思わずに生活できる人たちを羨ましく思う。ここに人間が幸福に生きるための鍵があるのではないかと思うのだ。

 話がタイトルから少し逸れてしまったが、言いたいのはこういうことである。自分にとって絶対的な価値があるものをいつか見つけられたらと思う。もしかしたらこの探求こそが自分にとっての「なぜ生きるか」という問いへの答えなのかもしれない。