穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【雑談】人生の長さが足りなすぎるという話

 新たに雑談というカテゴリを追加してみた。雑記については何らかのトピックに関して、自分の主張やとにかく言語化したいことやらを、しっかり文章を練ったうえで発信する場として利用したい。雑談についてはそこまで硬くならずに、ぬるーく自分の思っていることや現状を日記のように書き留める感じ、まあエッセイみたいな感覚で利用しようと思う。そのため言っていることに矛盾が生じたり、大いに感情論的になったり、話す内容や言葉遣いが俗的だったり、論の展開がおかしかったり、ただの愚痴であったり、マジでどうでもよかったりすると思うがご了承いただきたい。

 人生というものはやりたいことをするには短すぎる、そうは思はないだろうか。特に悲しいことに、人生において自由でいられる時間というものはかなり短い。自由な学生でいられるのはせいぜい六年生大学や大学院の終わる25ぐらいまでである。だいたいそこまで学生を続けるにしても、学部や研究室などにもよるだろうが、学生時代の終わるころには実際はかなり忙しいだろうから何とも言えないところである。

 人が何か行動するとき、その行動は動機によって二種類に分かれるだろう。単にやりたいこと及び興味のあること、生活などのためにやらなければいけないこと、の二つである。僕はこの前者への思いが肥大していると思われる。さらに、そのやりたさや興味の比重が一定期間ごとにぐるぐる変わってしまう。悩みというほどでもないのだが、時々「これからどうしていくのが正解なのか」、「今本当は何をしたいのか」といった思いがふと浮かぶのだ。

 要はやりたいことやなってみたいものが多すぎるのだ。もちろん程度はそれぞれだが。趣味や興味の対象が人より多いのだろうか。実際にやっている、もしくはやっていたこととしては、釣りもしたいし、絵も描きたいし、本も読みたいし、筋トレもしたいし、ゲームもしたいし、ブログも書きたいし、山も登りたいし、英語も勉強したいし、植物も育てたいし、外も走りたいし、fxもしたいし、といった感じだ、まだあるかも。やって「みたい」けどやったことのないものをあわせてしまうとかなり膨大となる。

 わがままと言われればそれまでなのだが、できることならついてみたい職業もそこそこある。内容は恥ずかしいので書かない。

 やりたいこととかなりたいものがたくさんあるなんていいじゃんと思う人もいるかもしれない。問題は四つある、一つ目は、僕自身が、何かをやるならとことんやりこみたいという性格であること、二つ目は僕の能力的な問題として、一度にほぼ一つのことしかできないということ、三つ目は、僕の興味の比重がその時によって変わってしまうこと、四つ目は、人生における時間というものは有限であることである。

 趣味をやるからにはとことんやりたいものだから、やれるだけのことを考えて取り組むし、ものによっては目標を立てて取り組むのだが、その目標を達成する前に他の趣味に目移りしてしまうと、一度にだいたい一つのことしかできないものだから、だいたい目標を達成できないのである。もちろんどの趣味に取り組んでいるときも夢中になっていることは間違いないし、あくまでも趣味だからこんな感じでも問題ないと言えば問題ないのだが、なんかもやもやするのである。

 これがなりたい職業となるとちょっと問題としてのレベルが高くなる。正直、何か一つだけの職業に本気でなりたいと思っているのであれば、何も問題はないのである。ただそれに向かって努力すれば良いだけであるし、そうすれば達成できる自信はそこそこある。ところがやりたいことがたくさんあるゆえに、一つにやることを定めるということができない。現実的には複数の職につくことは難しいし、努力が中途半端ではなれないものもあるだろう。結局は覚悟というものが足りていないのだろうか。

 こんな性格なものだから、高校時代はマジで不老不死というものを望んでいた。本気で健康寿命や若い体の期間の大幅な延長ということができないか悩んでいた。このことは今の学部を選んだ動機の一つでもある。人生というものが長くて、若い時がずっと続くのなら、やりたいことを全部極められると思ったからだ。

 ところが現実というものはそうはいかない、実際の時間は有限である。どうあがいても80ぐらいで僕は死んでしまう。しかも、学生の期間が終われば、おそらく社会に出るわけで、自由に使える時間というものはますます減る。時間の経過とともに身体的な衰えの問題も現れるだろう。だからこそ、たくさんのものを満足いくレベルまでこなすということはできないのだ。そのため、現実的には何に時間を投資するのかという「選択」をする必要が出てくる。

 この「選択」をなあなあにしているために、「これからどうしていくのが正解なのか」、「今本当は何をしたいのか」といったことを考えてしまうのではないか。ただ、仮に「選択」をしたとして、僕はそれでよかったと心から思えるのだろうか。

 何かを選択するということは、選択したもの以外を切り捨てるということである。後悔という感情とは少し違うと思うのだが、切り捨てたものを選んでいた場合の人生という可能性自体は心の中に残り続けるのではないか。

 おそらく何を「選択」したとしてもそれなりに楽しさや充足感、やりがいといったものは得られるのだろう。そしてその時切り捨てたもののことを思って「あれをしても楽しかったんだろうな」と思うのだろうか。そして、おそらく何を選んだとしても、自分の選んだものに対して飽きたりまたハマったりを繰り返すことになる。

 結局何を選ぼうが結果は同じ、それなりの満足感である。なーんかつまらない気がする。人間みんなこんなもんなのだろうか。ああつまらない。