穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【雑談】働かなくて済むならその方が絶対に良いという話

 皆さんは将来働きたいと思うだろうか。社会を舐めるなと言われるのは想定の上で、正直に言ってしまえば、一定水準の生活、生存が保証されるのであれば、僕は全く労働をしたいとは思わない。簡単に言えば何億円か分の資産があったとしたらおそらく積極的に働くことは無い。

 そもそも労働の意義とは何だろうか。日本国憲法では国民には労働の義務が定められているわけだがそれはなぜだろうか。社会的な意義としては現行の社会、国家を維持する目的が挙げられるだろう。これは社会全体というマクロな視点での労働の意義であるが、実際に労働をする個人個人に目を向ければ人それぞれの労働の意義のようなものが見えてくると思う。

 それは単に個人の生存やより良い生活を送るため、家族を養うための資金源とするためであったり、仕事それ自体にやりがいや楽しみを感じていたり、といったことに集約されるのではないだろうか。

 まず、資金源としての労働については、要はお金のためということであるので、そのお金が十分にあるのであれば、わざわざ働く理由は無くなるだろう。次にやりがいや楽しみといったものであるが、これは社会貢献欲を満たすことによる快感や、自分にしかできないことをしている実感や使命感であったり、ただ単純に労働の内容が個人にとって楽しめるものであったりといったことであると思う。

 問題はこのやりがいや楽しみといったものについてである。まず、僕は社会貢献の欲求がどうも希薄である。特定の個人、集団のために役に立ちたいという感覚は理解できるのだが、社会全体のために役立ちたいという感覚が正直なところ今は全く理解できない。これがどういったことに由来するのかはあまり自分でもわかっていないのだが、おそらく、社会や人間集団、国といったものへの帰属意識の薄さや嫌悪感のようなもの、興味の無さが関係していると思っている。

 次に、自分にしかできないことをしているという実感や使命感といったものについてなのだが、こういった感覚については、理解はできるものの、こういった実感を得るためには、運と相応の努力が必要不可欠であろう。いくら頑張ったとしても、誰かの劣化になってしまうことはあり得るのではないか。そういう意味ではナンバーワンよりもオンリーワンな人材を目指した方がやりがいを感じられるかもしれない。

 そもそも特定の個人にしかできない仕事というものがどれだけ存在するのか、そういった職に就けるのかという問題もある。いわゆる文系就職を否定するつもりはないのだが、理系や専門学生であれば磨いた専門知識や技術を生かすことのできる仕事につける可能性が高いと考えられるのに対し、いわゆる文系就職においてはそれまで学んだこととは関係性のあまりない職業につくことになるだろう。そうやって就職したとき、自分が本当に代替不可能な人材なのかといったことについて悩むことになると僕は思うのだが、いかがだろうか。

 僕は以上のことを加味した上で、専門知識を得られ、代替することが難しいであろう職に就ける学部に入学したわけなのだが、それでも実際に自分にしかできないことをしている実感や使命感のようなものを感じられるかどうかは、実際に働いてみないとわからないし、もしそうでなかったとしても、その時に今更職を変えることは難しいだろう。これについては、働こうと思えない理由というよりは、実際に働くことについての不安である。

 最後に、働くことそれ自体の楽しみについてなのだが、特定の職につく以上、何年も何十年もその職種につくことになるわけだが、そんなにやってて飽きないのか、という不安がある。また、仕事をすることが仮に楽しかったとしても、ある行為を楽しいと思うことと、それを積極的に欲することは別であるのではないかと思う。そもそも仕事として一つの楽しいことをやるよりも、趣味として色んな楽しいことをする方が良いのではないかと自分は考えてしまうので、やはり、働く楽しみよりも働かないで楽しめることの方が勝ってしまうと思う。働きながら趣味をやればいいという考えもあるだろうが、趣味は趣味で全力投球したいので、労働時間自体がそもそも邪魔なのである。

 ここまでで、個人の働く意義を挙げて、それに対する自身の考えを述べてきたわけだが、やはり、お金さえあれば働かなくていいと思ってしまうし、できれば働きたくないというのが今の考えである。逆にもし働くとしたら、お金以外の要素にどれだけ価値を見出せるか、ということが大事になるのではないだろうか、とも言えるだろう。

 働かないことを達成するためには、普通の家庭に生まれてきた以上、自分の力で金をある程度稼がなければいけないわけだが、その過程で、お金以外に労働の価値を見出すことができたら良いなとは思っている。まだ実際に働いたことがないからこそ理解できていない価値もあるとは思っているからだ。

 しかしやはり親が資産家だとか、fxとか株で一発当てたとかして、働かなくてもよいみたいな人がマジで羨ましすぎるので誰かお金をください。

【雑記】「意識高い系」は悪なのか

「意識高い系」とは何か

 「意識高い系」という言葉を聞いたことはあるだろうか。自分の周りにもそんな人がいるという意見もあるだろう。wikipediaによると意識高い系の人々は以下のように説明されている。

 

意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者[1][2]、前向きすぎて空回りしている若者[3]インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人[4]などを意味する俗称である。

大学生に対して使用されることが多いが[5]ビジネスマン主婦など若者・学生以外の層に対して使用される場合もある[2][6][7]。「意識高い系」の特徴として、自己啓発ボランティア政治)活動や人脈のアピール、あえて流行のカタカナ語を使うなどが挙げられる[1][8][9]。嘲笑の対象として「意識高い系(笑)」と表記されることもある[5]

  このように説明されているが、実際に「意識高い系」という言葉が使われる際は、もっと広い意味で使われていたり、wikipediaの説明にあるような蔑んだような意味ではなく、単純に肯定的な意味で意識が高い人を指す際にも使われていると思う(単なる誤用と言えばそれまでだが)。

 今回はそういった肯定的な意味からは離れて、否定的な意味で用いられる「意識高い系」について、その背景にある心理について考察し、本当にそれは批判すべき対象なのかということについて考えてみようと思う。

  ここでは僕の考える「意識高い系」について、「何らかの努力すべき対象や目標を持ち(あるいは持っていると錯覚し)、その目標に向かって努力する(あるいは努力していると思い込んでいる)自分に酔っている、またはそういった努力を他者や不特定多数に向けてアピールしたがるが、それに中身が伴っていないように思われる人々」と定義して論を進めていく。

「意識高い系」と自己陶酔

 上の項で述べた定義の通り、意識高い系の特徴の一つとして自己陶酔感情というものがある。簡単に言えば「努力している僕/私ってかっこいい、すごい、えらい、特別である」と思う(あるいは思い込む)ことである。

 自己陶酔という表現はしばしば批判的なニュアンスで使われることが多いが、僕はこういった感情には良い面もあると思うし、感情それ自体は自然なものだとも思う。

 人が目標に向かって努力し続けるためにはモチベーションのようなものが必要だろう。上記で述べたような自己陶酔感情が努力を続ける支えになることだってあるはずなのではないか。

 また、人が何かについて努力する、頑張るといったときに自分のしていることを肯定したくなるのも自然なことだと言えるのではないだろうか。自分の努力に意味がないと思いながら人が頑張り続けるのは難しいだろう。

 ところがこういった自身の努力を肯定する気持ちが過剰であったり、歪んでいたりすると話は別である。たとえば、自分が努力をしているからといって、自分よりも努力をしていない(もしくはそう思い込んでいる)人を見下したり、自分が特別だと思い込み、そんな特別な自分に対する周囲の環境の悪さについて嘆いたりなどといったことである。他にも様々なケースが考えられると思う。

 こういったことを心の中で思っている分には自由だが、それを態度に表していたとしたら不快に思う人がいても仕方がないだろう。マウントをとろうとしてくる人や、まるで自分が特別な存在であるかのような振る舞いをしているのを見たら、大抵の人は「ウザい」と感じるはずである。

 このように自己陶酔感情自体が一概に悪いとは言えないが、それが歪んだ形で表に出てきてしまうと他者を不快にさせる可能性がある。

「意識高い系」と自己顕示欲

 意識高い系の特徴として、自己陶酔感情と別に自己顕示欲求というものがあると思う。要は「自分はこれだけ努力をしている、こんなすごいことをしている、ということを周囲にアピールしたい、認めてもらいたい」といった欲求である。

 自己顕示欲求についても否定的に見られることが多いと思うが、これにも良い面があり、また、自然な欲求だと考えられる。

 正直な話、自己陶酔感情に同じく、自己顕示欲求、他者に自分をアピールしたい欲があるために努力が続けられている人だっているのではないだろうか。例として適切ではないかもしれないのだが、僕は趣味で筋トレをしている。そのモチベーションには人に見せても恥ずかしくない身体にしたいという欲求も含まれている。

 自己アピール自体が悪いことだとも思わない。たとえば社会的に本当に素晴らしいことをしている人がいたとしても、社会に対する十分なアピールがなされなかった場合、その人が知られる機会が無くなってしまうということも考えられる。

 それに、人が他者との関係性の中で生きている以上、周囲から肯定的に見られることを望むのもおかしいことではないだろう。

 また、広い意味では良い自分をアピールすることで他人から舐められたくない、見下されたくないという欲求も含まれると自分は考えている。人から蔑まれることを喜ぶ人はそういないだろう。

  自己顕示欲についても、問題となるのはそれが過剰になったときや歪んで現れているときである。たとえば本来の目的よりも、自分はすごいことをしているアピールをしたい欲求の方が優先されてしまっては、本末転倒で滑稽に思われるのではないだろうか。また、自己陶酔のケースと似ているが、自分アピールがマウンティングにつながったり、自分がこれだけ頑張っているということをアピールすることで他者を貶めようとするのはいかがなものだろうか。

 このように自己顕示欲求についても自己陶酔感情と同じように、一概に悪い面ばかりとは言えないが、やはりそれが歪んで現れると人からは良く思われないのである。

なぜ不快感を生むのか

 「意識高い系」の自己陶酔感情や自己顕示欲求の歪んだ発露が人に不快感を与えることは確認できたが、ではなぜこういった態度が人に不快感を与えるのだろうか。僕はこういった感情の発露が行われる状況による影響もあると思うが、受け手側の性質も関係してくると思っている。

 まず、「意識高い系」が否定的に捉えられる際、自己陶酔や自己アピールに対して、実際の実力や結果が伴っていない、まだ努力をしている段階であるなどして、受け手側からするとその価値を十分に受け取れないということが考えられる。

 努力というものは目に見えるものではない。だからこそ他者の承認を求めるのかもしれないが、受け手側からすれば目に見える結果が無ければその価値を理解することは難しい。また、目に見える結果があったとしてもその価値を理解できるかどうかは受け手の価値観や知識によるところがあるだろう。関心の無い他者からすれば「知ったこっちゃない」ことなのである。

 そんな「知ったこっちゃない」ことを根拠にしてマウンティングをされたり、まるで自分が特別かのような態度や、人を見下したような態度をとられたり、さらには「君はこうだからダメだ」といった批判や価値観の押し付けを行われたとしたら、不快に思うのも仕方のないことではないだろうか。(あくまでも「意識高い系」が否定的に捉えられる際の例である)

 ここまで意識高い系側をやや批判的に書いてしまったが、受け手側の問題も別に考えられる。

 そもそも意識高い系側が必ずしも相手を貶めようとしているとは限らないのである(無自覚にマウントをとろうとしてくるなどのたちの悪いパターンはまた別である)。意識高い系(とされている)側からしてみれば、ただ近況の報告をしているだけというケースもあるだろう。要はそういった単なる近況報告などについて受け手側が過剰に反応してしまっているのではないかということだ。

 それは自分よりアイツの方が頑張っている、自分の方が劣っている(などと思い込んでいる)ことによるコンプレックスのからくるものかもしれない。コンプレックスとまではいかなくともやや負い目を感じているといったこともあるのではないだろうか。

 逆に、自分の方が努力している、または自分の方が優れている(と思っている)のに、その程度でいい気になっているのがムカつくなどと考える人もいるだろう。真面目に何かに取り組んでいる(あるいはそう思い込んでいる)人からしてみれば、自分より不真面目な(あるいはそう見える)人が現状に酔っているように見えたとしたら不快感を感じると思う。

 また、世の中には一定数努力する人間を馬鹿にする人種が存在する。そういった人から見れば「意識高い系」はとても鼻につくのではないだろうか。

 このとおり、自己アピールの受け手側からすれば「知ったこっちゃない」ことであることを含め、受け手側の価値観や考え方も不快感を増長していると僕は考えている。

 別に僕は受け手側に落ち度があると言いたいわけではない。ただ、意識高い系(とされている)側が一方的に不快感を生んでいるという考えは違うのではないかと思うのである。

 そもそも問題は「意識高い系」の存在それ自体にあるのだろうか。別に目標を持って努力することや、それに酔ったり、それをアピールすること自体が悪いことだとは僕はあまり思わない。それよりも、問題は歪んだ自己陶酔や自己顕示欲の現れにあるのであって、そういったことが「意識高い系」の人にとっては起こりやすいのではないかということだ。

  ではなぜそういったことが起こるのかということについて以下では考えたい。

努力は偉いという思い込み

 子供の頃から勉強にせよ、スポーツにせよ何かについて努力した時、親などから「頑張ってえらいね」、「よく頑張ったね」などと言われてきた人は多いのではないだろうか。

 では努力をすることは偉いことなのだろうか、努力している人は他の人より偉いのだろうか。ここでは「偉い」という言葉の定義について議論したいわけではないし、努力する人を馬鹿にする意図は無いのだが、そもそも努力している人は他の人よりも優れているものなのだろうか。

 僕は「努力することは偉いことだ」という価値観は思い込みや刷り込みでしかないのではないかと思っている。そしてこの思い込み自体は悪いものではないとも思っている。生きている以上、課題や目標が断続的に設定され、それをこなすためには大なり小なり努力が必要であり、そうすることが偉いと思い込むことによって努力のモチベーションを保つことができるからだ。

 しかし、努力をした人の方が優れているだなんて、いったいどこの誰が決めたのだろうか。課題や目標を達成するためには誰でもある程度の努力が必要であるなんて、言ってしまえば当たり前のことであって、そこに優れているも劣っているもないのではなかろうか。そもそも努力なんて目に見えない上に、人によって基準の違うものを比較することなどできるのだろうか。

 また、似たような思い込みとして、「夢や目標がある人の方が偉い」というものもある。これにしたって誰が決めたというものでもないのである。なぜその方が優れているということになるのだろうか。夢や目標なんてものは本来当人が好きで掲げているものであって、そうしているかいないかで人間の優劣が決まるものではないだろう。

 こういった思い込みの裏には、人の自分の努力や目標を正当化したいという感情があると考えている。要は、自分の人生に意味付けをしたいのである。人生というものに本質的な意味が存在するのかということはさておき、誰も意味のない人生を送りたいとは思わないだろう。よってこういった感情も自然なものだと考えられるし、それ自体が悪いことだとは思わない。

 しかし、上記のような自分の人生を正当化する気持ちが肥大化してしまうと、「努力する人は偉い」、「夢や目標を持つ人は偉い」という価値観を他人に押し付けたり、承認してもらいたがったり、その価値観のもとでマウントをとったりするようになってしまうのではないかと僕は考えている。

 他者に自分の価値観を強要したり似たような価値観を持つ人に同調してもらったりすることで自身の正しさを確かめ、マウントをとったり見下したりすることによって、その価値観のもとでの自分の価値というものを認識しようとするのではないだろうか。

 以上のように、意識高い系の自己陶酔や自己顕示欲が歪んで現れる背景には、「努力は偉い」、「夢や目標を持つのは偉い」といった価値観、思い込みが、彼ら自身の人生を正当化したいがために存在し、そういった正当化の感情が肥大化したために他者を意識的、無意識的に関わらず利用してしまうといったことがあると考えられる。

 しかしこうして考えてみると、始めに定義した「意識高い系」自体が悪いというよりかは、自身の感情や欲求を自分だけでコントロールすることができずに他者を巻き込んでしまう態度が悪いのではないだろうか。また、意識高い系自体が悪いとは言えなくとも、その根底にある価値観や自己の正当化意識はそういった態度を誘発する可能性を孕んでいるのではないだろうか。

「意識高い系」は悪なのか

 ここまでで、「意識高い系」について、どういった点が悪いのか、どうしてそういったことが起こるのかといったことについて考えてきた。結論としては、意識高い系のすべてが悪いわけではなく、自己陶酔や自己顕示欲といったものをコントロールできずに、他者を巻き込む一部の人間が悪いというものである。そして意識高い系の人々の根底にある価値観や考え方には、そういった人間を作り出す恐れがあるということだ。

 よって、「意識高い系」についてそれ自体が悪いとは言えないが、全肯定することもできないというのが正直なところだ。しかし、世間一般で言われているほど批判すべき対象でもないと僕は思う。すでに述べたように意識高い系の態度に対する受け手側の心理にもある程度問題がありそうだと考えることもできる。

 そもそもの話、人が何かに挑戦しようとする際、誰だってはじめは「意識高い系」、ないしはそれに近いものなのではないか。自己陶酔とまでいかなくとも、誰にでも「こんなことしてる自分っていいな」という感情は起こり得るし、自己顕示欲と言うと仰々しいかもしれないが、それを人に話したくなるという欲求も起こり得るものだろう。また、誰だって挑戦したてのころは当然それに見合う実力は無いだろうし、実力や結果などは努力の過程で少しずつ現れてくるものである。

 いわゆる「意識高い系」を馬鹿にするのは簡単なことだが、はじめは単なる意識高い系の人であっても、当人が努力を続ける限りは、いずれ社会的に価値のあることを成し遂げる可能性だってあるのだ。

  結局のところ、問題はある発言や発信をするとき、その受け手の感情をどれだけ想像できるか、思いやれるかといったことなのではないか。あなたの発言は価値観の押し付けになってはいないだろうか、相手を貶めたり見下したりするような意図を持ってはいないだろうか、自分だけの価値基準から相手を批判していないだろうか、相手を不快にさせるような表現を使っていないだろうか、といったことである。

 「意識高い系」にせよそうでないにせよ、そういったことを考えられない人や、本当は考えられるのに故意に悪意を持って人と接する人は、残念ながら他者から不快に思われても当然であろう。そんなことが無いように努めたいものである。

 個人的には「意識高い系」がどうこうとかを気にせずに、世の人々がそれぞれ自由に好きなことに取り組められれば良いのにと思うのだが、いかがだろうか。

【雑談】死後の世界とかの考え方って便利だよねという話

 最近は成人式、同窓会や大学の課題のごたごたであまり記事を更新できていなかった。同窓会の帰りに友人と色々なことを話しているうちに帰りが朝の四時とかになったのだが、どんなことを話していたかと言えば一貫したテーマは「なぜ生きるか」といったことだったように思われる。

 「なぜ生きるか」という問いは誰もが一度は考え、その意味に悩んだことがあるのではないだろうか。もしかしたら昔の哲学者などがそれらしい答えを出しているのかもしれないが、僕は結局のところは、生まれたことにも生き続けることにもこれといって絶対的で特別な意味は存在しないと考えている。だからこそ人はこの問いに苦悩し、自分なりの意味というものを見出そうとするのだと思う。

 「死」とは意識が永遠に無となることであり、絶対的に不可逆的なものである。死ぬことそれ自体を知覚することすらもできない究極の虚無である。というのは間違っていないように思われる。意識を司るのは脳であり、その脳の活動が死によって停止するからだ。人個人の生は死んだ時点で終わるということである。

 ところが、こういった「死」についての虚無感に対抗すべき考え方を人類は生み出している。それが死後の世界や生まれ変わり、輪廻転生といった考え方だ。その考え方のもとでは人の生というものは死んだ時点で終わるものではない。「死」は死後の世界に行くことや別の生き物への転生などのための過程であって終着点ではないのだ。

 この考え方は「なぜ生きるか」という問いに対して「死んだ後のため」という絶対的な答えをくれる。死後の世界でより良い待遇を受けるため、より高等な生物に生まれ変わるため、といったものだ。

 こういった「死後どうなるか」といったことは多くの宗教によって語られている。これは「なぜ生きるか」という絶対的な答えがないにも関わらず、人が直面せざるを得ない問いに対しての人類の対抗策なのではないだろうかと自分は思ってしまうのだ。

 【読書録4】でも少し触れていたが、現代は世俗化という現象によって宗教による絶対的な価値観が効力を持つ時代ではなくなっている。本気で何らかの宗教を信仰している人には申し訳ないが、死んだあと実際に別の世界に行くなんて本当に思っている人はほとんどいないだろう。

 どちらが良いのかということは判断できないが、自分はそういった宗教的価値観が世の中を支配していた時代を少し羨ましく思う。そこには「死後の世界」が共通認識として存在し、だれもが「なぜ生きるか」という問いに対する共通の答えを持ち得たのではないだろうか。それともそういった世界にいたとしても共通の絶対的価値観というものに疑問を持っていたのだろうか。

 自分には自分だけの「なぜ生きるか」という問いへの答えがまだ見つかっていない。思うに、絶対的に信じられる何かがあれば人はそれを支えにして生きていけると思うのだ。それが生きる活力となり、支えになると思うのだ。自分にはその支柱となるべきものが存在していない。

 だからこそ自分はそういった支柱をもっている、つまり「なぜ生きるか」という問いへの答えがある人、または「なぜ生きるか」ということを疑問に思わずに生活できる人たちを羨ましく思う。ここに人間が幸福に生きるための鍵があるのではないかと思うのだ。

 話がタイトルから少し逸れてしまったが、言いたいのはこういうことである。自分にとって絶対的な価値があるものをいつか見つけられたらと思う。もしかしたらこの探求こそが自分にとっての「なぜ生きるか」という問いへの答えなのかもしれない。

【読書録4】『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』岡本亮輔

 大学の教養の授業で宗教関連の講義を取っていて、勧められた本だったので読んでみた。内容としては、本来宗教的な聖地巡礼と観光が融合する現代社会の中で、宗教というもののあり方がどのように変容しているのかといったことを、具体的な事例を挙げながら説明していく、といったものである。

 本書では副題の通り、世界遺産のような明らかに古くからの歴史的な信仰が確認されているものから、アニメの舞台のように比較的最近のある時期から一部の人にとってある種聖なるものとして扱われるようになったものまでを取り上げ、聖地を訪れる人の心理や、聖地が聖地として成立するための条件、またそれらの時代的な変容などについて述べている。

 「聖地」というと、どんなものを思い浮かべるだろうか。今でこそ、アニメの舞台を訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶようになったが、本来の聖地というものを考えると、宗教の制度によって定められたもの(本書で言うところの「冷たい聖地」)を思い浮かべるのではないだろうか。

 しかし、そういった場所を訪れる現代人たちは、必ずしも該当する宗教に所属しているわけではないのである。思い返してみると、観光などで神社や仏閣、教会等を訪れることはあれども、その宗教に対する帰属意識のようなものは自分は持ち合わせていなかったし、その場所がなぜ聖地とされているかの詳しい知識もなかった。つまり自分は「信仰なき巡礼者」であったわけである。

 聖地巡礼において、自分のような「信仰なき巡礼者」が増えていることは本文中でも述べられており、それは世俗化によって宗教が人々の生活に与える影響が小さくなり、人々が宗教による普遍的価値観というものを持たなくなったことに由来するとされている。現代はいわば個々人がそれぞれの価値を選び取る時代となったのだ。

 世俗化が進んだ現代において、人々にとって聖地というものはどういった役割や機能を持つのだろうか。信仰心を持たない人が巡礼をすることは宗教的な行為と言えるのだろうか。超自然的存在が信じられなくなってきた今、聖地というものはどのようにして発生するのか。といったことが本文には書かれている。

 宗教と社会の関係は確実に昔のものとは違ってきている。宗教的なものが必ずしも伝統的な組織を必要としなくなった現代において、これからの時代の宗教と社会のあり方が、聖地巡礼のあり方に反映されていくのではないだろうか。

【読書録番外編】本を読むにも経験値がいるという話

 読書を始めてみて気づいたのだが、本の内容を100%完全に理解するというのはそう簡単なことではないように思える。僕が未熟なだけかもしれないのだが、自分が難解だと思って挫折した本のレビューやら感想やらをネットで調べて読んでみると「面白くて一気に読んでしまった」だの「○○についての考察がわかりやすかった」だの書かれていたりするので、読み切れなかった側からすると「それマジ?」と感じてしまうのである。

 そういった人たちと自分の何が違うのか、そもそもすべてを理解しようという考え自体が傲慢なのかもしれないが、基本的に今までの読書量と持ってる知識量が関係しているのではないだろうか。

 まず、読書量についてなのだが、要は読書に慣れているかどうかがその人の本の読みやすさを決めているのではないかということだ。慣れている方が長時間集中できたり比較的速く読むことができるだろうと思うのである。実際、僕はまだ本を読み始めて数冊なのだが、既に集中して読んでいられる時間がはじめの二倍ぐらいになっている。これが何十冊、何百冊ともなると、効果はもっと違ってくるのではないだろうか。

 僕の今までの読書量はおそらく、平均と比べてもかなり少ない方だと思われる。自分は主に漫画とゲームで読み書きを覚え、学校の勉強に使うものを除けば本など読んでも年に一冊あるかどうか、小説なんかも学校の教科書の題材になるもの以外はほとんど読んでこなかったのだ。

 少し話が逸れるが、僕は読書というものが、知見を広げたり、価値観を変えるのに有効な手段であると前々からなんとなく思ってはいたのだが、全くと言って良いほど時間を割いてこなかった。だからこそ今ごろになって本を読み始めており、見事にハマってしまっているのである。

 ともかく、僕の読書の絶対量が少ないために難しめの書物を読むのに手こずっているのではないかと思うのだ。

 もう一つは知識量である。僕は本のジャンルのなかでも人文書、とりわけ思想や哲学に関するものを読みたいと思っていたのだが、いざ手に取ってみるとまあなんとなくしか知らない用語や人名というものがたくさん出てくる。はっきり言ってほとんど何を言ってるかわからないものもある。

 しかし、新しい思想や考えというのはそれより前のものを元にしたり、批判したりするところから出てくるのだから、当然と言えば当然なのである。要は本を読むにもその背景というものを理解していないと、本自体も理解できないのだと思うのだ。

 哲学や思想のことを知りたいにせよ、文化のことを知りたいにせよ、経済のことを知りたいにせよ、その今に至るまでの背景というものを知るところから始めるというのが大事なのではないかということである。

 そんなの当然だよと思うかもしれない。僕自身も言葉では理解していたつもりであったのだが、本を読むという行為によって言葉での理解が実感に変わったのだ。

 読書量についてはこれからたくさん読めば良いとして、知識量について、今の自分の知識量で理解できるものなのか、もっと背景的なものを理解すべきなのではということを考えた上でこれからは本を選びたいという所存である。

【読書録3】『愛という病』中村うさぎ

 週刊誌での連載をまとめたエッセイ集である。もともと「容姿の悩みとの付き合い方」を書くときに何か参考になることがあるのでは、女性特有の考え方があるかもしれないと思って図書館から借りてきたのだが、読み終えるよりもそっちを書き終える方が早かった。

 結論から言うと、女性特有の答えのようなものがあったのである。以下は「日本男児と異形のヒーロー」よりの引用である。

 女の子は幼い頃、たいてい、バービーやジェニーやリカちゃんなどの着せ替え人形で遊ぶ。言うまでもなく、人形は、自分の分身である。手足が長くて顔が小さく目のパッチリした人形に自己投影し、脳内に「理想の自己像」を作り上げるわけだ。

(中略)

 小学生の頃にバービー人形の呪いに取り憑かれ、細い体や大きな目や尖った顎に憧れて、美容整形までしてしまった。現在、五十一歳にもなるのに、私はいまだにバービー人形になりたがっている。我ながら滑稽だけど、やめられない。誰が何と言おうと私は自分の「見た目」にこだわり続ける。

 だってこれは「呪い」なんだもん。(以下略)

 このエッセイの趣旨は女性の容姿へのこだわりについてではないし、こだわりの要因は誰もが人形だとは限らないと思うのだが、彼女は女性の容姿へのこだわりを「呪い」だと表現した。

 この後、呪いは王子様のキスで解けるものだが、私には王子様なんていないし、金で買った王子様は役に立たないという皮肉が続く。そしてこういったこだわりはある程度生得的なものなのではないかと述べている。

 この「呪い」は美容整形をすることで完全に解けるというものでもないのだろう。現に著者である中村うさぎ氏は何度も整形を繰り返してこの「呪い」と戦い続けているのである。そしてその姿勢を自分でも「滑稽である」と認めているのだ。

 これを自己肯定感の問題だとしてしまうのは簡単だが、本当にそれだけで片づけられる問題なのだろうか。それは男である自分視点での考え方であって、女という生き物は、もっと複雑なものを抱えながら生きているのかもしれない。

 このエッセイ集には、こういった女性の抱える矛盾や不可解さといったものについて考察し、女というものをもっと理解しようという著者の思いが全体を通して感じられる。本の最後の解説にも書かれているのだが、著者自身が、整形や風俗業、借金や色狂いに身を投じてきたからこそ、そこには強い説得力があるのだろう。

【雑談】人生の長さが足りなすぎるという話

 新たに雑談というカテゴリを追加してみた。雑記については何らかのトピックに関して、自分の主張やとにかく言語化したいことやらを、しっかり文章を練ったうえで発信する場として利用したい。雑談についてはそこまで硬くならずに、ぬるーく自分の思っていることや現状を日記のように書き留める感じ、まあエッセイみたいな感覚で利用しようと思う。そのため言っていることに矛盾が生じたり、大いに感情論的になったり、話す内容や言葉遣いが俗的だったり、論の展開がおかしかったり、ただの愚痴であったり、マジでどうでもよかったりすると思うがご了承いただきたい。

 人生というものはやりたいことをするには短すぎる、そうは思はないだろうか。特に悲しいことに、人生において自由でいられる時間というものはかなり短い。自由な学生でいられるのはせいぜい六年生大学や大学院の終わる25ぐらいまでである。だいたいそこまで学生を続けるにしても、学部や研究室などにもよるだろうが、学生時代の終わるころには実際はかなり忙しいだろうから何とも言えないところである。

 人が何か行動するとき、その行動は動機によって二種類に分かれるだろう。単にやりたいこと及び興味のあること、生活などのためにやらなければいけないこと、の二つである。僕はこの前者への思いが肥大していると思われる。さらに、そのやりたさや興味の比重が一定期間ごとにぐるぐる変わってしまう。悩みというほどでもないのだが、時々「これからどうしていくのが正解なのか」、「今本当は何をしたいのか」といった思いがふと浮かぶのだ。

 要はやりたいことやなってみたいものが多すぎるのだ。もちろん程度はそれぞれだが。趣味や興味の対象が人より多いのだろうか。実際にやっている、もしくはやっていたこととしては、釣りもしたいし、絵も描きたいし、本も読みたいし、筋トレもしたいし、ゲームもしたいし、ブログも書きたいし、山も登りたいし、英語も勉強したいし、植物も育てたいし、外も走りたいし、fxもしたいし、といった感じだ、まだあるかも。やって「みたい」けどやったことのないものをあわせてしまうとかなり膨大となる。

 わがままと言われればそれまでなのだが、できることならついてみたい職業もそこそこある。内容は恥ずかしいので書かない。

 やりたいこととかなりたいものがたくさんあるなんていいじゃんと思う人もいるかもしれない。問題は四つある、一つ目は、僕自身が、何かをやるならとことんやりこみたいという性格であること、二つ目は僕の能力的な問題として、一度にほぼ一つのことしかできないということ、三つ目は、僕の興味の比重がその時によって変わってしまうこと、四つ目は、人生における時間というものは有限であることである。

 趣味をやるからにはとことんやりたいものだから、やれるだけのことを考えて取り組むし、ものによっては目標を立てて取り組むのだが、その目標を達成する前に他の趣味に目移りしてしまうと、一度にだいたい一つのことしかできないものだから、だいたい目標を達成できないのである。もちろんどの趣味に取り組んでいるときも夢中になっていることは間違いないし、あくまでも趣味だからこんな感じでも問題ないと言えば問題ないのだが、なんかもやもやするのである。

 これがなりたい職業となるとちょっと問題としてのレベルが高くなる。正直、何か一つだけの職業に本気でなりたいと思っているのであれば、何も問題はないのである。ただそれに向かって努力すれば良いだけであるし、そうすれば達成できる自信はそこそこある。ところがやりたいことがたくさんあるゆえに、一つにやることを定めるということができない。現実的には複数の職につくことは難しいし、努力が中途半端ではなれないものもあるだろう。結局は覚悟というものが足りていないのだろうか。

 こんな性格なものだから、高校時代はマジで不老不死というものを望んでいた。本気で健康寿命や若い体の期間の大幅な延長ということができないか悩んでいた。このことは今の学部を選んだ動機の一つでもある。人生というものが長くて、若い時がずっと続くのなら、やりたいことを全部極められると思ったからだ。

 ところが現実というものはそうはいかない、実際の時間は有限である。どうあがいても80ぐらいで僕は死んでしまう。しかも、学生の期間が終われば、おそらく社会に出るわけで、自由に使える時間というものはますます減る。時間の経過とともに身体的な衰えの問題も現れるだろう。だからこそ、たくさんのものを満足いくレベルまでこなすということはできないのだ。そのため、現実的には何に時間を投資するのかという「選択」をする必要が出てくる。

 この「選択」をなあなあにしているために、「これからどうしていくのが正解なのか」、「今本当は何をしたいのか」といったことを考えてしまうのではないか。ただ、仮に「選択」をしたとして、僕はそれでよかったと心から思えるのだろうか。

 何かを選択するということは、選択したもの以外を切り捨てるということである。後悔という感情とは少し違うと思うのだが、切り捨てたものを選んでいた場合の人生という可能性自体は心の中に残り続けるのではないか。

 おそらく何を「選択」したとしてもそれなりに楽しさや充足感、やりがいといったものは得られるのだろう。そしてその時切り捨てたもののことを思って「あれをしても楽しかったんだろうな」と思うのだろうか。そして、おそらく何を選んだとしても、自分の選んだものに対して飽きたりまたハマったりを繰り返すことになる。

 結局何を選ぼうが結果は同じ、それなりの満足感である。なーんかつまらない気がする。人間みんなこんなもんなのだろうか。ああつまらない。