穀潰し的読書録

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【雑記】容姿の悩みとの付き合い方

天賦の才としての外見

 僕は世の中のあらゆる能力や特性といったものは、生まれつきの素質で決まる部分と、環境や個人の努力で決まる部分があると思っているのだが、その中でも個人の容姿というものはほとんど生まれつきのものに由来する特性だと言ってよいだろう。

 綺麗ごとを抜きにして言うが、ルックスは良い方が基本的には得をすると考えている。単にモテやすくなるだろうし、恋愛感情を抜きにしてもちやほやされたり、可愛がられたりするかもしれない。こんなことはあってほしくないのだが、就職などにおける面接でも、容姿が良いおかげで好印象となるかもしれない。

 また、非常に忌避すべきことなのだが、容姿が良くないせいでいじめの対象になってしまったり、いじめとまではいかなくてもブスだのブサイクだのと直接罵られることも現実的な問題として考えられるのではないか。

 重要なのは、この外見というものが、ほとんど生まれたときの運で決定されてしまうということである。ソーシャルゲームのガチャのように、一生ものの容姿が確定してしまうのだ。しかもそのガチャは一度しか引けない。

 美容整形をすれば容姿は変えられるという見方もあるだろうが、土台となる顔によって整形でもできることの限界があるという問題もある。そもそも、容姿についての悩みの本質は美容整形をすることによって解決するものなのだろうか。

 僕自身は自分の容姿について特に悩んだりはしていないのだが(何もナルシストというわけでもないと思うのだが)、経験上、そういった悩みを抱え続ける人が一定数いることは事実だと思っている。

 だが、外見についての悩みというものは解決することができないものなのだろうか。ここでは、容姿を気にする裏にはどういった感情が隠れているのか、自らの容姿と向き合っていくにはどうしたらよいのかといったことについて考えていこうと思う。

 また、ここで用いる容姿や外見、ルックスといった言葉は、主に顔の形状やそのパーツ及びそのバランス、顔以外では身長や、女性であれば乳房の大きさといった生まれつきの素質で確定してしまう見た目の要素という意味で使用している。

 容姿の悩みとは

 そもそも容姿についての悩みとはどんなものなのだろうか、まず、自らの容姿によって現在実生活において明らかに不利益を被っている、もしくはそういった経験をしたために自分の容姿に不満を持つといったことが考えられる。

 容姿のために悪口をいわれたり、いじめられたり、他の人と接するときに比べて露骨に態度を変えられたりすることは、残酷だが、現実的に起こり得ることである。異性に単に見た目が好みじゃないという理由で振られる、本気で悪口を言われてるわけじゃないにせよ容姿についてからかわれるといったこともあるだろう。

 たとえば、2018年のことであるが、お笑い芸人であるたんぽぽの川村エミコが、テレビ番組の収録中に、自分への周囲の態度と、モデルである滝沢カレンに対する態度の違いに、「私もかわいく生まれたかった」と思わず泣いてしまった事件がある。

 容姿を理由に不利益を被ることで、自分に自信が持てなくなったり、人間不信になったりすることは十分に考えられる。その影響で恋愛を含めた人とのコミュニケーション自体に苦手意識をもつようになるということもあり得るだろう。

 逆に、容姿が良いがために人から妬まれていじめの対象になるといったことも考えられる。その過程で、本来魅力的な容姿を持っていたとしても、自分の見た目を好きになれなくなってしまうということもあるのではないか。

 ここまでで、容姿によって不利益を被ることで容姿について悩むようになるという論を進めてきた。しかし、それだけでは微妙に容姿の悩みを説明しきれないように思える。僕の見る限り、特に女性においてなのだが、以下のような人たちが一定数存在する。

 特別悪い方だとは思えない容姿をしていて、容姿を理由にいじめなどを受けている様子もなく、実際異性からのアプローチもあるようで、さらには恋人などがいたりするのに、つまり容姿による不利益を被っているようには一見思えないのに「自分がブスすぎて嫌になる」、「早くお金をためて整形したい」などと言う人たちだ。

 はじめは謙虚さアピールや嫌味だと思っていたのだが、話を聞く限りそういうわけではないらしい。彼らは紛れもなく容姿について悩んでいる。おそらく容姿を褒めたところで、この悩みは解決しない。結局、彼らは自分から見た自分自身について満足がいってないのである。

 「不利益を被っているようには一見思えない」としたように、実際他者から容姿を理由に危害を加えられたり、他者との関係構築に支障が出たりしてはいないと思われる。しかし、彼らの視点に立ってみると、厳密には細かな不満点というものが見えてくるだろう。

 たとえば、他人がどう思うかとかではなく、彼ら本人から見てやりたいファッションやメイクが似合わなかったり、顔のパーツが気に入らなかったりするかもしれない。10人いたら8人は魅力的だと思う容姿であったとしても、彼らからすれば10人全員から魅力的だと思われるレベルでないと気が済まないのかもしれない。今よりもよりランクの高い異性からのアプローチを受けたいのかもしれない。あるいはその人から見て自分よりも容姿の良い人を見ているうちに、劣等感を抱くようになったということもあり得るだろう。

 要は本人にとってこうありたいという姿、理想があり、現実とのギャップが存在するために悩んでいるのである。

 以上を総合して考えると、容姿についての悩みとは、現実的に明らかな不利益を被っており、「こんな容姿でなければこうはならなかったのに」と思うことや、明らかに損をしているとまでは言えなくとも現状に不満があり、「もっとこうであれば満足できたのに」と思うことであると言えるだろう。

 容姿についての悩みの正体が見えてきたところで、そういった悩みを解決するためにはどんな手段や考え方があるのかということについて考えてみたいと思う。

美容整形はすべてを解決するのか

 容姿の悩みを解決する手段として、まず誰もが考えるのは美容整形ではないか。では美容整形は容姿に関するすべての悩みを解決してくれるものなのだろうか、僕はあくまでも解決できる可能性があるとしか言えないものだと思っている。

 ほぼ完全に解決できる場合もあるだろう。たとえばの話だが、両目で二重の幅が違っていて、それがずっとコンプレックスで悩んでいるというケースは、片方の二重幅を広げる手術を行えば、手術が成功する限りで、この悩みは完璧に解決すると言ってよい。

 だが、現実はこんな簡単なケースばかりではないだろう。

 たとえば、橋本環奈の顔が理想であり、理想と現実のギャップに悩んでいるという女性がいたとしよう。この場合、元の顔にもよると思うが、いくら手術を繰り返したところで、近づくことはできたとしても橋本環奈の顔それ自体になるということは現実的に厳しいのではないだろうか。また、元の顔によってはどうあがいても橋本環奈の顔には近づかないといったこともあり得るわけである。

 容姿を理由にいじめられていて、それで思い悩んでいるという人がいたとする。この場合、整形をしても容姿がさほど改善しない場合があるという問題に加え、容姿が仮に改善したところで、いじめそのものがなくなるのかという問題もある。また、美容整形をよく思わない人もいるのは事実であり、整形したことをからかわれ、余計にいじめられてしまうという可能性だってなくはないのである。

 要は、美容整形でできることには限界があるのだ。ただ、一番最初に述べたケースのように、単に容姿のコンプレックスによる悩みで、整形によって変えたい箇所が明確であり、しかもそれが技術的に可能である場合は完全に解決することができるだろう。

 逆に言うと、それ以外のケースについては、「解決できる可能性がある」、「部分的には解決できる可能性がある(改善の可能性がある)」、としか言えない。容姿の改善度合いは結局元の顔やその時の美容整形技術によって限界があり、悩みの内容によっては容姿が改善したところで解決するとは限らない。このことに気づいているのかいないのか、何度も整形を繰り返してしまうという整形依存の問題もある。

 やや否定的になってしまったが、美容整形によって悩みが解決する、または改善することがわかっている場合、すなわち容姿の改善自体が悩みの改善に直接つながるのであれば、限界こそあるものの美容整形は有効な手段となり得ると思っている。

 だが、すでに述べたのだが、容姿についての悩みだからといって、容姿が改善されれば解決するとは限らないこともあるだろう。逆に言えば容姿の改善自体に悩み解決の鍵があるとも限らないのではないか。このことについて次の項で考えていこうと思う。

容姿を改善する必要はない?

 「容姿の悩みとは」で考察したように、容姿の悩みの原因は何らかの不利益を被ることや、本人から見た細かな不満点などであった。ということは、容姿が良くないこと自体が問題であるというよりも、そのことよって不利益や不満が生じることに問題があるという見方もできるのではないか。

 たとえば、容姿を理由に悪口を言う人がいるとき、その問題の本質は、被害者側の容姿がどうこうではなく、容姿を理由に悪口を言う人間がいることと、それによって被害者が精神的に傷を負うことと言えるだろう。

 つまり、このケースの場合、極端なことを言うかもしれないが、容姿を改善できなかったとしても、悪口を言う人間とは関わらない、またはその人間を排除したり制裁するなどして悪口を言われる状況をなくす、もしくは被害者が悪口を何とも思わないように精神的に強くなるか自信を持つことができればこの問題は解決すると言えないだろうか。

 容姿が理由で自分に自信が持てないという人もいるだろう。この問題の本質も自信が持てないということ、自己肯定感が低いということなわけである。もっと自分を褒めてあげることで、ありのままの自分を認めることはできないのだろうか。

 僕が言いたいのは、大事なのは容姿そのものなのではなく、生き方なのではないかということだ。容姿は生まれつきのものであるが、容姿の悩みは生まれつきのものではないのである。

 とは言ったものの、誰もがそう簡単に考え方を変えられるともかぎらないだろうし、実際に容姿そのものが問題であるというケースもあるわけだ(容姿だけが理由で好きな異性に振られるなど)。ただ、問題の本質が容姿そのものにあるのか、容姿だけのせいにしていないかということを考えることで悩みの改善につながるかもしれないということは十分言えることだと思う。

 上記の考え方が万人に通用するとは思っていないが、どうやら価値観や考え方をアップデートすることが容姿の悩みの改善に役立てられるかもしれないとは言えそうである。以下では、僕自身が思う容姿の悩みに関する価値観、考え方を紹介していきたい。

容姿だけが理不尽なものなのか

 容姿は運で決まり、それが人や程度によれど生きやすさに影響する。なんと理不尽なことだろうか。だが、そもそも運によって生きやすさがある程度決まるなんてことは、言ってしまえば当たり前のことである。

 容姿をはじめとして、勉強の素質やスポーツの素質、両親の性格や仲の良さ、生まれた家庭の収入、人生で出会う人間の性格、生まれた国や地域の治安や豊かさ貧しさなど、あげればまだまだあるだろうが、人生なんてものは自分で決定できないことだらけであるのだ。

 人生というものはそもそも理不尽にできているのである。結局人は与えられたカードで勝負するしかない。良いカードを引くやつもいれば、悪いカードを引くやつもいる。「なんで自分が...」と思うのは仕方のないことであるが、残念ながらそこに理由などない。

 理由のないことについてなぜと嘆いたって、はっきり言って時間の無駄である。どうしようもないことについて嘆く暇があったら、自分で変えられることを見つけて努力する方が賢明であるだろう。

理想が高すぎはしないか

 人は理想とのギャップから自分に満足できずに容姿について悩むことがある、としたが、満足できるレベルというものが高すぎる人は、自分がどれだけばかばかしいことを考えているのかを自覚すべきである。

 たとえば自分の容姿に不満があり、誰から見ても魅力的だと思われる容姿にになりたいと言うことは、今の収入に不満があるから石油王になりたいと言ってることと同じぐらい、いや、石油王というものは現実に存在し得るということを考えると、それよりもばかげていることである。

 どんなファッションでも完璧に着こなせるようになりたいなんてのも同様である。何事も完璧な状態になるというのは現実的に厳しい。また、容姿やファッションの良さやなんてのは結局主観的なものなので、誰から見ても良い状態というものをそもそも定義できないという問題がある。

 実現不可能かつ実体が曖昧であるものを望むことはやめるべきだろう。どんなに望んでも絶対に手に入らないものであるからだ。そんなものを望むのはやめて、実現可能な範囲で問題を解決していくということはできないのだろうか。理想が高すぎる人は、現実的な妥協点はどこにあるのかということを一度考えてみてほしい。

他人がそんなに大事か

 人から容姿をどう思われているのかが気になって仕方がないというという人もいるだろう。人には承認欲求というものがあるから、人から良く思われたいというのは当然のことかもしれないが、人からどう思われているのかというのは、そんなに大事なことなのだろうか。

 他人と自分の容姿を比較して落ち込むという人もいるだろう。隣の芝生は青く見えるものであるが、他人と比較することに意味はあるのだろうか。その人が実際どう思っているかなんてその人にしかわからないのである。

 上記のようなことで悩む人は、ずっと他人を基準にして生きていくつもりなのだろうか。常に人と自分を比べ、人の目を気にして生きていくのだろうか。そんなの本当の意味で自分の人生を生きていると言えるのだろうか。

 美容整形で容姿をある程度改善することはできるかもしれない。だが、すでに述べたように整形にも限界がある上、誰から見ても完璧に魅力的な容姿なんてものは存在し得ないし、自分ではない誰かになるということはできない。美容整形の是非を問うつもりはないが、整形したこと自体を人からよく思われないということもある。

 結局は、こういったことを気にするのは、実際の容姿がどうこうというよりも自己肯定感の問題であると僕は思う。自分を低く見積もりすぎてはいないか、自分の短所ばかりに目が向いて、長所を探すこと自体そもそもやめてしまっていはいないかといったことを確認してみてほしい。

 しかし、それでも人から悪口を言われたり、からかわれたり、そういった経験が尾を引いて自分に自信が持てないということもあるだろう。

 僕が思うに、容姿について人に悪口を言う人間は、単に想像力の欠けた馬鹿であるか、人に悪意を振るうことを何とも思わない馬鹿であるか、もしくはそういった馬鹿の意見や行動によく考えずに同調する馬鹿である。そんな馬鹿の言うことをいちいち気にするなんてあほらしくはないだろうか。悪いのはこういった人間の方であってあなた自身ではないのである。

 自らの容姿との付き合い方

 これまで容姿の悩みを解決するための手段や考え方について考えてきた。少しでも容姿について悩む人の助けになっただろうか。そう簡単にはいかないという声もあるだろう。

 僕がこの文章を通してやりたかったことは、各項のタイトルにもあるが、そもそも人生というものは理不尽であるのではないか、理想が高すぎるといったことはないのか、他人の存在がそこまで重要なものなのか、といった問題提起である。そして、最も伝えたかったのは、大事なのは容姿それ自体ではなく、生き方や考え方であるということだ。

 容姿の影響を否定するつもりはない、しかし、だからと言って人が自分らしく生きる権利が奪われるということにはならないのである。

 容姿について悩む人が、自己肯定感を持ち、自分なりの生き方、考え方を見つけていけたらと願う。

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