穀潰し的読書録

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【雑記】「意識高い系」は悪なのか

「意識高い系」とは何か

 「意識高い系」という言葉を聞いたことはあるだろうか。自分の周りにもそんな人がいるという意見もあるだろう。wikipediaによると意識高い系の人々は以下のように説明されている。

 

意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者[1][2]、前向きすぎて空回りしている若者[3]インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人[4]などを意味する俗称である。

大学生に対して使用されることが多いが[5]ビジネスマン主婦など若者・学生以外の層に対して使用される場合もある[2][6][7]。「意識高い系」の特徴として、自己啓発ボランティア政治)活動や人脈のアピール、あえて流行のカタカナ語を使うなどが挙げられる[1][8][9]。嘲笑の対象として「意識高い系(笑)」と表記されることもある[5]

  このように説明されているが、実際に「意識高い系」という言葉が使われる際は、もっと広い意味で使われていたり、wikipediaの説明にあるような蔑んだような意味ではなく、単純に肯定的な意味で意識が高い人を指す際にも使われていると思う(単なる誤用と言えばそれまでだが)。

 今回はそういった肯定的な意味からは離れて、否定的な意味で用いられる「意識高い系」について、その背景にある心理について考察し、本当にそれは批判すべき対象なのかということについて考えてみようと思う。

  ここでは僕の考える「意識高い系」について、「何らかの努力すべき対象や目標を持ち(あるいは持っていると錯覚し)、その目標に向かって努力する(あるいは努力していると思い込んでいる)自分に酔っている、またはそういった努力を他者や不特定多数に向けてアピールしたがるが、それに中身が伴っていないように思われる人々」と定義して論を進めていく。

「意識高い系」と自己陶酔

 上の項で述べた定義の通り、意識高い系の特徴の一つとして自己陶酔感情というものがある。簡単に言えば「努力している僕/私ってかっこいい、すごい、えらい、特別である」と思う(あるいは思い込む)ことである。

 自己陶酔という表現はしばしば批判的なニュアンスで使われることが多いが、僕はこういった感情には良い面もあると思うし、感情それ自体は自然なものだとも思う。

 人が目標に向かって努力し続けるためにはモチベーションのようなものが必要だろう。上記で述べたような自己陶酔感情が努力を続ける支えになることだってあるはずなのではないか。

 また、人が何かについて努力する、頑張るといったときに自分のしていることを肯定したくなるのも自然なことだと言えるのではないだろうか。自分の努力に意味がないと思いながら人が頑張り続けるのは難しいだろう。

 ところがこういった自身の努力を肯定する気持ちが過剰であったり、歪んでいたりすると話は別である。たとえば、自分が努力をしているからといって、自分よりも努力をしていない(もしくはそう思い込んでいる)人を見下したり、自分が特別だと思い込み、そんな特別な自分に対する周囲の環境の悪さについて嘆いたりなどといったことである。他にも様々なケースが考えられると思う。

 こういったことを心の中で思っている分には自由だが、それを態度に表していたとしたら不快に思う人がいても仕方がないだろう。マウントをとろうとしてくる人や、まるで自分が特別な存在であるかのような振る舞いをしているのを見たら、大抵の人は「ウザい」と感じるはずである。

 このように自己陶酔感情自体が一概に悪いとは言えないが、それが歪んだ形で表に出てきてしまうと他者を不快にさせる可能性がある。

「意識高い系」と自己顕示欲

 意識高い系の特徴として、自己陶酔感情と別に自己顕示欲求というものがあると思う。要は「自分はこれだけ努力をしている、こんなすごいことをしている、ということを周囲にアピールしたい、認めてもらいたい」といった欲求である。

 自己顕示欲求についても否定的に見られることが多いと思うが、これにも良い面があり、また、自然な欲求だと考えられる。

 正直な話、自己陶酔感情に同じく、自己顕示欲求、他者に自分をアピールしたい欲があるために努力が続けられている人だっているのではないだろうか。例として適切ではないかもしれないのだが、僕は趣味で筋トレをしている。そのモチベーションには人に見せても恥ずかしくない身体にしたいという欲求も含まれている。

 自己アピール自体が悪いことだとも思わない。たとえば社会的に本当に素晴らしいことをしている人がいたとしても、社会に対する十分なアピールがなされなかった場合、その人が知られる機会が無くなってしまうということも考えられる。

 それに、人が他者との関係性の中で生きている以上、周囲から肯定的に見られることを望むのもおかしいことではないだろう。

 また、広い意味では良い自分をアピールすることで他人から舐められたくない、見下されたくないという欲求も含まれると自分は考えている。人から蔑まれることを喜ぶ人はそういないだろう。

  自己顕示欲についても、問題となるのはそれが過剰になったときや歪んで現れているときである。たとえば本来の目的よりも、自分はすごいことをしているアピールをしたい欲求の方が優先されてしまっては、本末転倒で滑稽に思われるのではないだろうか。また、自己陶酔のケースと似ているが、自分アピールがマウンティングにつながったり、自分がこれだけ頑張っているということをアピールすることで他者を貶めようとするのはいかがなものだろうか。

 このように自己顕示欲求についても自己陶酔感情と同じように、一概に悪い面ばかりとは言えないが、やはりそれが歪んで現れると人からは良く思われないのである。

なぜ不快感を生むのか

 「意識高い系」の自己陶酔感情や自己顕示欲求の歪んだ発露が人に不快感を与えることは確認できたが、ではなぜこういった態度が人に不快感を与えるのだろうか。僕はこういった感情の発露が行われる状況による影響もあると思うが、受け手側の性質も関係してくると思っている。

 まず、「意識高い系」が否定的に捉えられる際、自己陶酔や自己アピールに対して、実際の実力や結果が伴っていない、まだ努力をしている段階であるなどして、受け手側からするとその価値を十分に受け取れないということが考えられる。

 努力というものは目に見えるものではない。だからこそ他者の承認を求めるのかもしれないが、受け手側からすれば目に見える結果が無ければその価値を理解することは難しい。また、目に見える結果があったとしてもその価値を理解できるかどうかは受け手の価値観や知識によるところがあるだろう。関心の無い他者からすれば「知ったこっちゃない」ことなのである。

 そんな「知ったこっちゃない」ことを根拠にしてマウンティングをされたり、まるで自分が特別かのような態度や、人を見下したような態度をとられたり、さらには「君はこうだからダメだ」といった批判や価値観の押し付けを行われたとしたら、不快に思うのも仕方のないことではないだろうか。(あくまでも「意識高い系」が否定的に捉えられる際の例である)

 ここまで意識高い系側をやや批判的に書いてしまったが、受け手側の問題も別に考えられる。

 そもそも意識高い系側が必ずしも相手を貶めようとしているとは限らないのである(無自覚にマウントをとろうとしてくるなどのたちの悪いパターンはまた別である)。意識高い系(とされている)側からしてみれば、ただ近況の報告をしているだけというケースもあるだろう。要はそういった単なる近況報告などについて受け手側が過剰に反応してしまっているのではないかということだ。

 それは自分よりアイツの方が頑張っている、自分の方が劣っている(などと思い込んでいる)ことによるコンプレックスのからくるものかもしれない。コンプレックスとまではいかなくともやや負い目を感じているといったこともあるのではないだろうか。

 逆に、自分の方が努力している、または自分の方が優れている(と思っている)のに、その程度でいい気になっているのがムカつくなどと考える人もいるだろう。真面目に何かに取り組んでいる(あるいはそう思い込んでいる)人からしてみれば、自分より不真面目な(あるいはそう見える)人が現状に酔っているように見えたとしたら不快感を感じると思う。

 また、世の中には一定数努力する人間を馬鹿にする人種が存在する。そういった人から見れば「意識高い系」はとても鼻につくのではないだろうか。

 このとおり、自己アピールの受け手側からすれば「知ったこっちゃない」ことであることを含め、受け手側の価値観や考え方も不快感を増長していると僕は考えている。

 別に僕は受け手側に落ち度があると言いたいわけではない。ただ、意識高い系(とされている)側が一方的に不快感を生んでいるという考えは違うのではないかと思うのである。

 そもそも問題は「意識高い系」の存在それ自体にあるのだろうか。別に目標を持って努力することや、それに酔ったり、それをアピールすること自体が悪いことだとは僕はあまり思わない。それよりも、問題は歪んだ自己陶酔や自己顕示欲の現れにあるのであって、そういったことが「意識高い系」の人にとっては起こりやすいのではないかということだ。

  ではなぜそういったことが起こるのかということについて以下では考えたい。

努力は偉いという思い込み

 子供の頃から勉強にせよ、スポーツにせよ何かについて努力した時、親などから「頑張ってえらいね」、「よく頑張ったね」などと言われてきた人は多いのではないだろうか。

 では努力をすることは偉いことなのだろうか、努力している人は他の人より偉いのだろうか。ここでは「偉い」という言葉の定義について議論したいわけではないし、努力する人を馬鹿にする意図は無いのだが、そもそも努力している人は他の人よりも優れているものなのだろうか。

 僕は「努力することは偉いことだ」という価値観は思い込みや刷り込みでしかないのではないかと思っている。そしてこの思い込み自体は悪いものではないとも思っている。生きている以上、課題や目標が断続的に設定され、それをこなすためには大なり小なり努力が必要であり、そうすることが偉いと思い込むことによって努力のモチベーションを保つことができるからだ。

 しかし、努力をした人の方が優れているだなんて、いったいどこの誰が決めたのだろうか。課題や目標を達成するためには誰でもある程度の努力が必要であるなんて、言ってしまえば当たり前のことであって、そこに優れているも劣っているもないのではなかろうか。そもそも努力なんて目に見えない上に、人によって基準の違うものを比較することなどできるのだろうか。

 また、似たような思い込みとして、「夢や目標がある人の方が偉い」というものもある。これにしたって誰が決めたというものでもないのである。なぜその方が優れているということになるのだろうか。夢や目標なんてものは本来当人が好きで掲げているものであって、そうしているかいないかで人間の優劣が決まるものではないだろう。

 こういった思い込みの裏には、人の自分の努力や目標を正当化したいという感情があると考えている。要は、自分の人生に意味付けをしたいのである。人生というものに本質的な意味が存在するのかということはさておき、誰も意味のない人生を送りたいとは思わないだろう。よってこういった感情も自然なものだと考えられるし、それ自体が悪いことだとは思わない。

 しかし、上記のような自分の人生を正当化する気持ちが肥大化してしまうと、「努力する人は偉い」、「夢や目標を持つ人は偉い」という価値観を他人に押し付けたり、承認してもらいたがったり、その価値観のもとでマウントをとったりするようになってしまうのではないかと僕は考えている。

 他者に自分の価値観を強要したり似たような価値観を持つ人に同調してもらったりすることで自身の正しさを確かめ、マウントをとったり見下したりすることによって、その価値観のもとでの自分の価値というものを認識しようとするのではないだろうか。

 以上のように、意識高い系の自己陶酔や自己顕示欲が歪んで現れる背景には、「努力は偉い」、「夢や目標を持つのは偉い」といった価値観、思い込みが、彼ら自身の人生を正当化したいがために存在し、そういった正当化の感情が肥大化したために他者を意識的、無意識的に関わらず利用してしまうといったことがあると考えられる。

 しかしこうして考えてみると、始めに定義した「意識高い系」自体が悪いというよりかは、自身の感情や欲求を自分だけでコントロールすることができずに他者を巻き込んでしまう態度が悪いのではないだろうか。また、意識高い系自体が悪いとは言えなくとも、その根底にある価値観や自己の正当化意識はそういった態度を誘発する可能性を孕んでいるのではないだろうか。

「意識高い系」は悪なのか

 ここまでで、「意識高い系」について、どういった点が悪いのか、どうしてそういったことが起こるのかといったことについて考えてきた。結論としては、意識高い系のすべてが悪いわけではなく、自己陶酔や自己顕示欲といったものをコントロールできずに、他者を巻き込む一部の人間が悪いというものである。そして意識高い系の人々の根底にある価値観や考え方には、そういった人間を作り出す恐れがあるということだ。

 よって、「意識高い系」についてそれ自体が悪いとは言えないが、全肯定することもできないというのが正直なところだ。しかし、世間一般で言われているほど批判すべき対象でもないと僕は思う。すでに述べたように意識高い系の態度に対する受け手側の心理にもある程度問題がありそうだと考えることもできる。

 そもそもの話、人が何かに挑戦しようとする際、誰だってはじめは「意識高い系」、ないしはそれに近いものなのではないか。自己陶酔とまでいかなくとも、誰にでも「こんなことしてる自分っていいな」という感情は起こり得るし、自己顕示欲と言うと仰々しいかもしれないが、それを人に話したくなるという欲求も起こり得るものだろう。また、誰だって挑戦したてのころは当然それに見合う実力は無いだろうし、実力や結果などは努力の過程で少しずつ現れてくるものである。

 いわゆる「意識高い系」を馬鹿にするのは簡単なことだが、はじめは単なる意識高い系の人であっても、当人が努力を続ける限りは、いずれ社会的に価値のあることを成し遂げる可能性だってあるのだ。

  結局のところ、問題はある発言や発信をするとき、その受け手の感情をどれだけ想像できるか、思いやれるかといったことなのではないか。あなたの発言は価値観の押し付けになってはいないだろうか、相手を貶めたり見下したりするような意図を持ってはいないだろうか、自分だけの価値基準から相手を批判していないだろうか、相手を不快にさせるような表現を使っていないだろうか、といったことである。

 「意識高い系」にせよそうでないにせよ、そういったことを考えられない人や、本当は考えられるのに故意に悪意を持って人と接する人は、残念ながら他者から不快に思われても当然であろう。そんなことが無いように努めたいものである。

 個人的には「意識高い系」がどうこうとかを気にせずに、世の人々がそれぞれ自由に好きなことに取り組められれば良いのにと思うのだが、いかがだろうか。