穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【読書録番外編】本を読むにも経験値がいるという話

 読書を始めてみて気づいたのだが、本の内容を100%完全に理解するというのはそう簡単なことではないように思える。僕が未熟なだけかもしれないのだが、自分が難解だと思って挫折した本のレビューやら感想やらをネットで調べて読んでみると「面白くて一気に読んでしまった」だの「○○についての考察がわかりやすかった」だの書かれていたりするので、読み切れなかった側からすると「それマジ?」と感じてしまうのである。

 そういった人たちと自分の何が違うのか、そもそもすべてを理解しようという考え自体が傲慢なのかもしれないが、基本的に今までの読書量と持ってる知識量が関係しているのではないだろうか。

 まず、読書量についてなのだが、要は読書に慣れているかどうかがその人の本の読みやすさを決めているのではないかということだ。慣れている方が長時間集中できたり比較的速く読むことができるだろうと思うのである。実際、僕はまだ本を読み始めて数冊なのだが、既に集中して読んでいられる時間がはじめの二倍ぐらいになっている。これが何十冊、何百冊ともなると、効果はもっと違ってくるのではないだろうか。

 僕の今までの読書量はおそらく、平均と比べてもかなり少ない方だと思われる。自分は主に漫画とゲームで読み書きを覚え、学校の勉強に使うものを除けば本など読んでも年に一冊あるかどうか、小説なんかも学校の教科書の題材になるもの以外はほとんど読んでこなかったのだ。

 少し話が逸れるが、僕は読書というものが、知見を広げたり、価値観を変えるのに有効な手段であると前々からなんとなく思ってはいたのだが、全くと言って良いほど時間を割いてこなかった。だからこそ今ごろになって本を読み始めており、見事にハマってしまっているのである。

 ともかく、僕の読書の絶対量が少ないために難しめの書物を読むのに手こずっているのではないかと思うのだ。

 もう一つは知識量である。僕は本のジャンルのなかでも人文書、とりわけ思想や哲学に関するものを読みたいと思っていたのだが、いざ手に取ってみるとまあなんとなくしか知らない用語や人名というものがたくさん出てくる。はっきり言ってほとんど何を言ってるかわからないものもある。

 しかし、新しい思想や考えというのはそれより前のものを元にしたり、批判したりするところから出てくるのだから、当然と言えば当然なのである。要は本を読むにもその背景というものを理解していないと、本自体も理解できないのだと思うのだ。

 哲学や思想のことを知りたいにせよ、文化のことを知りたいにせよ、経済のことを知りたいにせよ、その今に至るまでの背景というものを知るところから始めるというのが大事なのではないかということである。

 そんなの当然だよと思うかもしれない。僕自身も言葉では理解していたつもりであったのだが、本を読むという行為によって言葉での理解が実感に変わったのだ。

 読書量についてはこれからたくさん読めば良いとして、知識量について、今の自分の知識量で理解できるものなのか、もっと背景的なものを理解すべきなのではということを考えた上でこれからは本を選びたいという所存である。