穀潰し的読書録

チラシの裏にでも書いておけ

【読書録2】『不幸論』中島義道

幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。世の中には、この錯覚に陥っている人と、陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることを諦めている人がいる。ただそれだけである。 

 著者の中島義道という男は相当ひねくれたものの見方をしていると思う。ネット上で彼の対談やコラムを見て、面白い考えの人がいると思って彼の著作は一度だけ読んだことがあった。今回改めて何か読もうと考え、適当に見繕ったのが『不幸論』だったというわけである。

 この本の趣旨は、世の中に蔓延している幸福論や、それを信じて疑わないマジョリティに対するアンチテーゼである。不幸論という題であるが、内容は幸福とは何か、それは成立するものなのかといったものである。

 正直批判すべき箇所や矛盾点もいくつかあるだろう。そもそもの著者の掲げた幸福の成立するための4条件(自分の欲望がかなえられていること、その欲望が信念にかなっていること、その欲望が世間から承認されていること、欲望の実現に際して他人を不幸にしないこと)が正しいのかというのも疑問である。また、彼の論は「人生というものは必ず死ぬ点において絶対的に不幸である」という価値観の下に成り立っているということも注意せねばならない。

 ただ、世の中で謳われている幸福の方法論や、幸福にならなければならないという考え、本当の幸福とは何か、幸福とは本当に存在するのかといったことに対して疑問を持っている人には納得できる部分があると思う。

 彼は幸福というものを自己欺瞞や感覚の麻痺によるものであるとばっさり切り捨て、そういった幸福(らしきもの)をとるのか、不幸という真実を見据えて生きるのか、という問題提起をしている。

 こういった論を展開する背景には彼自身の人生に対する美学があると思う。彼は、「人生というものは最初から最後まで圧倒的に不条理なものであり、そのことを考え続けること、目をそらさないで見続けることに価値がある」と考えているのだ。この価値観は多くの人間に当てはまるものではないだろう。だが、彼はこの態度を一貫して崩さない。

 「容姿の悩みとの付き合い方」でも書いたのだが、人生というものはそもそも理不尽なものであり、生まれつきの運というものによって、ある程度生きやすさが変わってしまう。いわば人生は不平等で、相対的な不幸というものが存在しているのだ。

 そこであえて人生の不幸というものを見つめ、受け入れてみる。「人生というものは必ず死ぬ点において絶対的に不幸である」のだから、それに比べれば相対的な不幸は些末な問題ととらえることができるのではないか。この本は結局そういうことを言いたいのではないだろうか。

【雑記】容姿の悩みとの付き合い方

天賦の才としての外見

 僕は世の中のあらゆる能力や特性といったものは、生まれつきの素質で決まる部分と、環境や個人の努力で決まる部分があると思っているのだが、その中でも個人の容姿というものはほとんど生まれつきのものに由来する特性だと言ってよいだろう。

 綺麗ごとを抜きにして言うが、ルックスは良い方が基本的には得をすると考えている。単にモテやすくなるだろうし、恋愛感情を抜きにしてもちやほやされたり、可愛がられたりするかもしれない。こんなことはあってほしくないのだが、就職などにおける面接でも、容姿が良いおかげで好印象となるかもしれない。

 また、非常に忌避すべきことなのだが、容姿が良くないせいでいじめの対象になってしまったり、いじめとまではいかなくてもブスだのブサイクだのと直接罵られることも現実的な問題として考えられるのではないか。

 重要なのは、この外見というものが、ほとんど生まれたときの運で決定されてしまうということである。ソーシャルゲームのガチャのように、一生ものの容姿が確定してしまうのだ。しかもそのガチャは一度しか引けない。

 美容整形をすれば容姿は変えられるという見方もあるだろうが、土台となる顔によって整形でもできることの限界があるという問題もある。そもそも、容姿についての悩みの本質は美容整形をすることによって解決するものなのだろうか。

 僕自身は自分の容姿について特に悩んだりはしていないのだが(何もナルシストというわけでもないと思うのだが)、経験上、そういった悩みを抱え続ける人が一定数いることは事実だと思っている。

 だが、外見についての悩みというものは解決することができないものなのだろうか。ここでは、容姿を気にする裏にはどういった感情が隠れているのか、自らの容姿と向き合っていくにはどうしたらよいのかといったことについて考えていこうと思う。

 また、ここで用いる容姿や外見、ルックスといった言葉は、主に顔の形状やそのパーツ及びそのバランス、顔以外では身長や、女性であれば乳房の大きさといった生まれつきの素質で確定してしまう見た目の要素という意味で使用している。

 容姿の悩みとは

 そもそも容姿についての悩みとはどんなものなのだろうか、まず、自らの容姿によって現在実生活において明らかに不利益を被っている、もしくはそういった経験をしたために自分の容姿に不満を持つといったことが考えられる。

 容姿のために悪口をいわれたり、いじめられたり、他の人と接するときに比べて露骨に態度を変えられたりすることは、残酷だが、現実的に起こり得ることである。異性に単に見た目が好みじゃないという理由で振られる、本気で悪口を言われてるわけじゃないにせよ容姿についてからかわれるといったこともあるだろう。

 たとえば、2018年のことであるが、お笑い芸人であるたんぽぽの川村エミコが、テレビ番組の収録中に、自分への周囲の態度と、モデルである滝沢カレンに対する態度の違いに、「私もかわいく生まれたかった」と思わず泣いてしまった事件がある。

 容姿を理由に不利益を被ることで、自分に自信が持てなくなったり、人間不信になったりすることは十分に考えられる。その影響で恋愛を含めた人とのコミュニケーション自体に苦手意識をもつようになるということもあり得るだろう。

 逆に、容姿が良いがために人から妬まれていじめの対象になるといったことも考えられる。その過程で、本来魅力的な容姿を持っていたとしても、自分の見た目を好きになれなくなってしまうということもあるのではないか。

 ここまでで、容姿によって不利益を被ることで容姿について悩むようになるという論を進めてきた。しかし、それだけでは微妙に容姿の悩みを説明しきれないように思える。僕の見る限り、特に女性においてなのだが、以下のような人たちが一定数存在する。

 特別悪い方だとは思えない容姿をしていて、容姿を理由にいじめなどを受けている様子もなく、実際異性からのアプローチもあるようで、さらには恋人などがいたりするのに、つまり容姿による不利益を被っているようには一見思えないのに「自分がブスすぎて嫌になる」、「早くお金をためて整形したい」などと言う人たちだ。

 はじめは謙虚さアピールや嫌味だと思っていたのだが、話を聞く限りそういうわけではないらしい。彼らは紛れもなく容姿について悩んでいる。おそらく容姿を褒めたところで、この悩みは解決しない。結局、彼らは自分から見た自分自身について満足がいってないのである。

 「不利益を被っているようには一見思えない」としたように、実際他者から容姿を理由に危害を加えられたり、他者との関係構築に支障が出たりしてはいないと思われる。しかし、彼らの視点に立ってみると、厳密には細かな不満点というものが見えてくるだろう。

 たとえば、他人がどう思うかとかではなく、彼ら本人から見てやりたいファッションやメイクが似合わなかったり、顔のパーツが気に入らなかったりするかもしれない。10人いたら8人は魅力的だと思う容姿であったとしても、彼らからすれば10人全員から魅力的だと思われるレベルでないと気が済まないのかもしれない。今よりもよりランクの高い異性からのアプローチを受けたいのかもしれない。あるいはその人から見て自分よりも容姿の良い人を見ているうちに、劣等感を抱くようになったということもあり得るだろう。

 要は本人にとってこうありたいという姿、理想があり、現実とのギャップが存在するために悩んでいるのである。

 以上を総合して考えると、容姿についての悩みとは、現実的に明らかな不利益を被っており、「こんな容姿でなければこうはならなかったのに」と思うことや、明らかに損をしているとまでは言えなくとも現状に不満があり、「もっとこうであれば満足できたのに」と思うことであると言えるだろう。

 容姿についての悩みの正体が見えてきたところで、そういった悩みを解決するためにはどんな手段や考え方があるのかということについて考えてみたいと思う。

美容整形はすべてを解決するのか

 容姿の悩みを解決する手段として、まず誰もが考えるのは美容整形ではないか。では美容整形は容姿に関するすべての悩みを解決してくれるものなのだろうか、僕はあくまでも解決できる可能性があるとしか言えないものだと思っている。

 ほぼ完全に解決できる場合もあるだろう。たとえばの話だが、両目で二重の幅が違っていて、それがずっとコンプレックスで悩んでいるというケースは、片方の二重幅を広げる手術を行えば、手術が成功する限りで、この悩みは完璧に解決すると言ってよい。

 だが、現実はこんな簡単なケースばかりではないだろう。

 たとえば、橋本環奈の顔が理想であり、理想と現実のギャップに悩んでいるという女性がいたとしよう。この場合、元の顔にもよると思うが、いくら手術を繰り返したところで、近づくことはできたとしても橋本環奈の顔それ自体になるということは現実的に厳しいのではないだろうか。また、元の顔によってはどうあがいても橋本環奈の顔には近づかないといったこともあり得るわけである。

 容姿を理由にいじめられていて、それで思い悩んでいるという人がいたとする。この場合、整形をしても容姿がさほど改善しない場合があるという問題に加え、容姿が仮に改善したところで、いじめそのものがなくなるのかという問題もある。また、美容整形をよく思わない人もいるのは事実であり、整形したことをからかわれ、余計にいじめられてしまうという可能性だってなくはないのである。

 要は、美容整形でできることには限界があるのだ。ただ、一番最初に述べたケースのように、単に容姿のコンプレックスによる悩みで、整形によって変えたい箇所が明確であり、しかもそれが技術的に可能である場合は完全に解決することができるだろう。

 逆に言うと、それ以外のケースについては、「解決できる可能性がある」、「部分的には解決できる可能性がある(改善の可能性がある)」、としか言えない。容姿の改善度合いは結局元の顔やその時の美容整形技術によって限界があり、悩みの内容によっては容姿が改善したところで解決するとは限らない。このことに気づいているのかいないのか、何度も整形を繰り返してしまうという整形依存の問題もある。

 やや否定的になってしまったが、美容整形によって悩みが解決する、または改善することがわかっている場合、すなわち容姿の改善自体が悩みの改善に直接つながるのであれば、限界こそあるものの美容整形は有効な手段となり得ると思っている。

 だが、すでに述べたのだが、容姿についての悩みだからといって、容姿が改善されれば解決するとは限らないこともあるだろう。逆に言えば容姿の改善自体に悩み解決の鍵があるとも限らないのではないか。このことについて次の項で考えていこうと思う。

容姿を改善する必要はない?

 「容姿の悩みとは」で考察したように、容姿の悩みの原因は何らかの不利益を被ることや、本人から見た細かな不満点などであった。ということは、容姿が良くないこと自体が問題であるというよりも、そのことよって不利益や不満が生じることに問題があるという見方もできるのではないか。

 たとえば、容姿を理由に悪口を言う人がいるとき、その問題の本質は、被害者側の容姿がどうこうではなく、容姿を理由に悪口を言う人間がいることと、それによって被害者が精神的に傷を負うことと言えるだろう。

 つまり、このケースの場合、極端なことを言うかもしれないが、容姿を改善できなかったとしても、悪口を言う人間とは関わらない、またはその人間を排除したり制裁するなどして悪口を言われる状況をなくす、もしくは被害者が悪口を何とも思わないように精神的に強くなるか自信を持つことができればこの問題は解決すると言えないだろうか。

 容姿が理由で自分に自信が持てないという人もいるだろう。この問題の本質も自信が持てないということ、自己肯定感が低いということなわけである。もっと自分を褒めてあげることで、ありのままの自分を認めることはできないのだろうか。

 僕が言いたいのは、大事なのは容姿そのものなのではなく、生き方なのではないかということだ。容姿は生まれつきのものであるが、容姿の悩みは生まれつきのものではないのである。

 とは言ったものの、誰もがそう簡単に考え方を変えられるともかぎらないだろうし、実際に容姿そのものが問題であるというケースもあるわけだ(容姿だけが理由で好きな異性に振られるなど)。ただ、問題の本質が容姿そのものにあるのか、容姿だけのせいにしていないかということを考えることで悩みの改善につながるかもしれないということは十分言えることだと思う。

 上記の考え方が万人に通用するとは思っていないが、どうやら価値観や考え方をアップデートすることが容姿の悩みの改善に役立てられるかもしれないとは言えそうである。以下では、僕自身が思う容姿の悩みに関する価値観、考え方を紹介していきたい。

容姿だけが理不尽なものなのか

 容姿は運で決まり、それが人や程度によれど生きやすさに影響する。なんと理不尽なことだろうか。だが、そもそも運によって生きやすさがある程度決まるなんてことは、言ってしまえば当たり前のことである。

 容姿をはじめとして、勉強の素質やスポーツの素質、両親の性格や仲の良さ、生まれた家庭の収入、人生で出会う人間の性格、生まれた国や地域の治安や豊かさ貧しさなど、あげればまだまだあるだろうが、人生なんてものは自分で決定できないことだらけであるのだ。

 人生というものはそもそも理不尽にできているのである。結局人は与えられたカードで勝負するしかない。良いカードを引くやつもいれば、悪いカードを引くやつもいる。「なんで自分が...」と思うのは仕方のないことであるが、残念ながらそこに理由などない。

 理由のないことについてなぜと嘆いたって、はっきり言って時間の無駄である。どうしようもないことについて嘆く暇があったら、自分で変えられることを見つけて努力する方が賢明であるだろう。

理想が高すぎはしないか

 人は理想とのギャップから自分に満足できずに容姿について悩むことがある、としたが、満足できるレベルというものが高すぎる人は、自分がどれだけばかばかしいことを考えているのかを自覚すべきである。

 たとえば自分の容姿に不満があり、誰から見ても魅力的だと思われる容姿にになりたいと言うことは、今の収入に不満があるから石油王になりたいと言ってることと同じぐらい、いや、石油王というものは現実に存在し得るということを考えると、それよりもばかげていることである。

 どんなファッションでも完璧に着こなせるようになりたいなんてのも同様である。何事も完璧な状態になるというのは現実的に厳しい。また、容姿やファッションの良さやなんてのは結局主観的なものなので、誰から見ても良い状態というものをそもそも定義できないという問題がある。

 実現不可能かつ実体が曖昧であるものを望むことはやめるべきだろう。どんなに望んでも絶対に手に入らないものであるからだ。そんなものを望むのはやめて、実現可能な範囲で問題を解決していくということはできないのだろうか。理想が高すぎる人は、現実的な妥協点はどこにあるのかということを一度考えてみてほしい。

他人がそんなに大事か

 人から容姿をどう思われているのかが気になって仕方がないというという人もいるだろう。人には承認欲求というものがあるから、人から良く思われたいというのは当然のことかもしれないが、人からどう思われているのかというのは、そんなに大事なことなのだろうか。

 他人と自分の容姿を比較して落ち込むという人もいるだろう。隣の芝生は青く見えるものであるが、他人と比較することに意味はあるのだろうか。その人が実際どう思っているかなんてその人にしかわからないのである。

 上記のようなことで悩む人は、ずっと他人を基準にして生きていくつもりなのだろうか。常に人と自分を比べ、人の目を気にして生きていくのだろうか。そんなの本当の意味で自分の人生を生きていると言えるのだろうか。

 美容整形で容姿をある程度改善することはできるかもしれない。だが、すでに述べたように整形にも限界がある上、誰から見ても完璧に魅力的な容姿なんてものは存在し得ないし、自分ではない誰かになるということはできない。美容整形の是非を問うつもりはないが、整形したこと自体を人からよく思われないということもある。

 結局は、こういったことを気にするのは、実際の容姿がどうこうというよりも自己肯定感の問題であると僕は思う。自分を低く見積もりすぎてはいないか、自分の短所ばかりに目が向いて、長所を探すこと自体そもそもやめてしまっていはいないかといったことを確認してみてほしい。

 しかし、それでも人から悪口を言われたり、からかわれたり、そういった経験が尾を引いて自分に自信が持てないということもあるだろう。

 僕が思うに、容姿について人に悪口を言う人間は、単に想像力の欠けた馬鹿であるか、人に悪意を振るうことを何とも思わない馬鹿であるか、もしくはそういった馬鹿の意見や行動によく考えずに同調する馬鹿である。そんな馬鹿の言うことをいちいち気にするなんてあほらしくはないだろうか。悪いのはこういった人間の方であってあなた自身ではないのである。

 自らの容姿との付き合い方

 これまで容姿の悩みを解決するための手段や考え方について考えてきた。少しでも容姿について悩む人の助けになっただろうか。そう簡単にはいかないという声もあるだろう。

 僕がこの文章を通してやりたかったことは、各項のタイトルにもあるが、そもそも人生というものは理不尽であるのではないか、理想が高すぎるといったことはないのか、他人の存在がそこまで重要なものなのか、といった問題提起である。そして、最も伝えたかったのは、大事なのは容姿それ自体ではなく、生き方や考え方であるということだ。

 容姿の影響を否定するつもりはない、しかし、だからと言って人が自分らしく生きる権利が奪われるということにはならないのである。

 容姿について悩む人が、自己肯定感を持ち、自分なりの生き方、考え方を見つけていけたらと願う。

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【読書録3】『愛という病』中村うさぎ

【読書録1】『武器としての決断思考』瀧本哲史

 ブログの設立から一週間経ったのだが、決して本を読むことをサボっていたわけではない。このブログで最初に書こうと思っていた本はそのあまりの長さのために挫折し、 次に手を出した本は自分にとって難解であるがために挫折してしまった。このために最初の本を読み切るまでにかなり時間がかかってしまったのである。これらについてはいずれ必ずリベンジしたいと思う。

 大学の教養の講義でたびたび著者の瀧本哲史氏についての話を聞いており、なんとなくすごい人であるということは知っていたので、気になって図書館から彼の書籍を借りてきた次第である。

 この本はいわば、論理的な思考のための教科書であると思う。内容としては主にディベートの方法についての解説なのだが、著者の意図としては、読者たちそれぞれがディベートの方法論を自らの意思決定の際に用いることで、なんとなくのいい加減な思考から脱させ、周囲に流されず、自分の頭で考える人材を増やしたいということなのだと思われる。

 自分が何らかの主張をするとき、その根拠は明確であり、また、その根拠は反論に耐えうるものであっただろうか。また、自分の意見を発信する際、常にそのことを意識していただろうか。自分は読んでいて急所を突かれた気分になった。

 この本に書かれている思考の方法は、著者が一貫して述べていたことでもあるが、単なる知識として吸収するだけでは意味がなく、実際の判断に活用し、それを行動に起こしてこそ意味のあるものであると思う。実際の教養というものはそういった過程で身につくものなのだろう。

 常に正しい人間なんてものを目指すつもりはないのだが、本書の思考形態を体得し、著者の言う「自分で考えて、自分で決めていく人生」を歩んでいけたらと思う。

 

【雑記】僕が部活動を好きになれないことついての考察

はじめに

 僕はどうも部活動というものが好きになれない。実際、僕は高校時代、残す大会は最後の高体連のみというタイミングで所属していた陸上部をやめ、大学に入ってからも、新歓にこそ行ったものの、やはり違うと感じて運動部に入ることは無かった。しかし、これらについての後悔は一切ないと言い切れる。

 僕は高校以来、部活動というものに対して、何かもやもやとしたものを抱えて生きてきたのだが、自分でもそれがどういった要因に由来するのかがうまく言語化できていなかった。今回はそれらの要因について考察し、部活動を辞めたいと思っている人には参考にしてもらえればと思うし、そうでない人にはこんな考え方の人もいるということを知ってもらおうと思っている。

 ひとつ本論に入る前に言っておきたいのは、僕は何も、部活に所属している人たちを否定したいわけではないということである。むしろ僕は、部活に所属している人たちを皮肉抜きに、ある意味で尊敬していると言える。僕にはできないことをしているし、おそらく僕には無い能力や考え方を持っているのだろうと思う。

 そして、これまた勘違いしてもらいたくないのだが、僕自身は運動が割と好きである。だからこそ高校時代は陸上部に所属していたのだし、今でも筋トレや山登りなどはする。

 少し話がそれてしまったのだが、とにかく、僕は部活動というもの自体が好きになれないのであって、そこに所属する人たちが嫌いなわけでもなく、彼らを貶めるつもりは一切ないということを強調しておきたい。

部活を辞めた理由

 まず、僕の高校時代の話をしようと思う。前述の通り、僕は部活を辞めた経験がある。辞めるに至った理由は小さいものを数えると結構あるのだが、大きな理由としては、自分には才能がなかったことと、陸上競技自体が好きなわけではないということに気づいてしまったことの二つである。

 僕の所属していた陸上部は強豪でこそなかったが、毎年何人かはインターハイに出る選手を輩出していたし、地区大会を突破して県大会までいける人もそこそこに多かった。

 そんなこともあってか、それなりに意識の高い部活で、毎月目標設定用紙なるものに、各期間においての陸上における目標と人生における目標を書いて提出する義務があった。

 こんな言い方をすると怒られてしまうかもしれないが、一応部の共通の目標としてはインターハイで優勝する選手を出すことだったので、僕は陸上における目標の欄に「インターハイ優勝」と、無言の圧力に屈して毎回書いていたのだが、これが僕にとって回数を重ねるごとに辛くなっていった。

 結論から述べると、僕の陸上競技者としての実力は県大会どころか、地区大会の突破も厳しいものであった。

 僕は高校から競技を始めたので、努力の絶対量が足りなかったと言えばそれまでなのだが、それでも少なくとも約2年の間、週5の部活にきちんと出て、食事にも気を使い、空いた時間で自主的なトレーニングも行い、人並みには努力をしていたつもりだった。

 しかし、まあ身体を動かすセンスというものがほとんど無かった。自分なりに色々意識してみたり、友人や先輩、先生などにアドバイスをもらって実践したり、Youtubeの動画を参考にしたり、友人に自分の動画を撮ってもらって見返したりと、やれることはやっていたと思うのだが、走っても跳んでもいつも腰が低いと言われたし、競技の記録は微妙に伸びたり伸びなかったりが続いた。

 話を戻すが、正直逆立ちしてもインターハイ優勝どころか、地区大会の突破すらできないだろうということに高校二年の終わりになって気づいてしまったのだ。いや、正確には薄々気づきながらも自分をごまかしつつ、目標に向かって努力をしている自分を演じていたのである。皮肉にも目標設定用紙というモチベーションアップのための装置によって、そのことに気づかされてしまったのである。

 それ以来、なぜ自分は部活を続けているのかを疑問に思うことが多くなった。もともと部活に入った理由としては、中学時代からの友人が多くいたことと、身体づくりが好きだったことと、個人競技だったからということなどで、純粋な陸上への情熱などは無かった。

 そして思い返してみると、部活の仲間が陸上選手や他校の強い選手についての話やら、スパイクについての話やらをしていても、ついていけたためしがなかったことに気づいた。そもそも陸上競技というスポーツ自体への興味を持ち合わせていなかったのである。

 要は、僕はただ友人とトレーニングをすることが好きで部活を続けてきたのであり、スポーツとしての陸上競技自体が好きでやっていたわけではなかったのだ。

 上記のことに気づいたとき、僕の心は部活を辞める方向に向いていた。受験勉強に時間をかけたかったことと、陸上競技個人競技であるために、自分が辞めることが部の損失とならないことがそれを後押しした。

 部活を辞める相談を顧問にした際、大事なのは結果でなく過程であるのだからもう少し続けてみないかといった趣旨の話をされたのだが、過程が大事であるというのならば、これ以上中途半端な気持ちで続けること自体が部に対して申し訳なかった。

 それに僕は性格上、「結果は残念だったが、最後まで頑張ってきたこと自体に意味があったのだ」という考え方は嫌いであった。もちろんそう考える人もいるだろうしそれを否定するつもりはない。当時の自分の価値観には合わなかったし、今もあまりそうは思えないというだけである。

 結果としては、部活に関する精神的ストレスは取り除かれ、受験もなんとかうまくいき、今でも部活を途中で辞めたのは英断であったと思っている。

 以上が僕が高校時代に部活を辞めた顛末である。僕この件以来、どうも運動部というものに対して懐疑的になってしまった。というよりは、今まで心の奥で抱えていた疑問が表に出てくるようになった。以下では運動部というもののにつてどういったところが苦手なのか、疑問なのかを具体的に述べていこうと思う。

組織としての運動部

 まず、運動部とはある種の組織であるわけだが、僕はそもそも、組織というものが苦手である。正確には組織に所属することによって生じる義務や責任、その他あらゆる拘束や強制力といったものが苦手である。これは僕の持つ元来の性格によるものである。

 ルールや強制力などは、組織を組織たらしめるものであり、組織の団結力や秩序を維持するために存在するべくして存在しているということは理解できる。しかし時には、合理性に欠けたルールや慣習なども存在するのが社会集団というものである。

 僕は、ルールはルールである、みんながやるから自分もやる、ということを無心で受け入れることが苦手である。したがって、ルールや慣習に迎合することを求められる運動部も苦手であるということになる。これは僕個人の性格上の問題であり、こうした考え方が幼稚であるというのならば、僕は幼稚でよいと考えている。

 少し話がそれるが、これは運動部に限らず、世の中に存在する、ありとあらゆる社会集団、組織全般について当てはまるものである。

 組織というものについて批判ばかり書いてしまったが、もちろん良いところもあると思っている。ルールや強制力、義務や責任の共有によって組織の構成員間に絆が生まれるのは事実であると思うし、そうすることでしかできない仲間というものが存在するということもまた事実であるだろう。また、僕のように社会性に乏しい人間でも、部活という組織を通じて社会について学んだことはいくつかある。

 運動部は上記のように団結力や親交を深める装置でもあり、社会性を身につけさせたり、社会というものを学習させるため装置でもあると思われる。そういった機能もあるのだろうということを一応付け加えておきたい。

 以上が僕が運動部、ひいては社会組織一般について感じていることである。

部活動を行う目的とは何か

 部活動における目的というものは、基本的に大きく二つあると思っている。一つ目は単にその競技が好きで、競技をすること自体が目的であるということ、二つ目は努力によって競技能力を向上させ、大会等で好成績を残すこと、すなわち今よりも上を目指すということである。

 一つ目については僕もよく理解できる。単に好きだからやる、やりたいからやるということであろう。こういった目的で活動している人を僕は羨ましく思う。僕自身には大学において、わざわざ部活動という組織に入ってまでやりたい、興味があると思えるものは無かったからだ。好きで何かを行う、楽しいからやる、ということは個人的にとても素晴らしいことだと思っている。

 二つ目についてもある程度は理解できる。各々が大会や試合に向けて目標を立て、目標達成のために競技能力を向上させるべく努力するのだろう。その過程に一種のゲーム性や面白さがあるのはわかる。やるからには一生懸命努力しようとするのもわかる。

 ここで僕が疑問に思ってしまうのは、そういった努力を続けた先には結果として何があるのか、その先に意味はあるのかということである。

 現実的な話、何らかの部活動をやっている人たちのうち、本気でその競技のプロになろうと考えている人はほとんどいないだろう。同様にそれで飯を食っていこうと考えている人もほとんどいないだろう。学生時代が終われば自然と競技も辞める人が大半なのではなかろうか。

 好きでやっている人には申し訳ないのだが、言ってしまえば、スポーツにおける競技能力なんてものは、基本的にはスポーツ以外の実生活においては役に立たないスキルである。競技を辞めた後は、指導者にでもならないかぎり、能力の持ち腐れとなってしまうだろう。

 僕は何も、役に立たなくなることには取り組むべきではない、実生活で役に立たないもの、仕事にならないものに価値はない、なんてことを言いたいわけではない。実際僕は趣味で対戦ゲームをすることがあるし、それなりに勝つために努力をするが、ゲームにおける対戦スキルが実際の生活において役立つものだなんて思ってやってはいないし、その道のプロになろうとも思ってはいない。ただ楽しいから、順位を取りたいがためにやっているのである。

 しかし、運動部で競技に取り組むことと、個人の趣味でゲームをすることは全く違う。趣味のゲームであれば、好きな時に好きなだけやれば良いし、飽きたら辞めて、またやりたくなったらやれば良い。だが、部活となるとそうはいかない。組織に所属する以上義務や責任があり、好きな時に入ったり辞めたりを繰り返すことはできないし、そんなことでは部活動である意味がない。

 また、部活をする以上、一定の時間的拘束を受けた状態が中学高校であれば2~3年、大学であれば4年程度続くだろう。人によってはもっと続く場合もあるのではないか。この間いつも部活が好きでいられていて、夢中になってやっているのだろうか。部活は仕事とは違ってしないと生きていけないものではないのだが。

 学生時代における数年間というのは、決して短い期間ではないと僕は考えている。今思えば、中学高校大学と学校という場において、部活動というものは常に奨励されてきたように思うのだが、僕個人としては、たかがスポーツのスキルのために、少年期・青年期の貴重な数年間を投資することを勧めるのはいかがなものかと考えてしまう。

 これらについて、競技を通じて考える力や問題解決能力などを養うことができ、それらの能力は社会に出てからも役に立つという反論があるかもしれない。しかし、そんなものは部活にせよ勉強にせよ何かについて真面目に努力をすれば自然と身に着くものだと僕は考えていて、部活動である必要性がないと思っている。

 唯一部活動である必要性があるとすれば、「組織としての運動部」で述べたように、社会性を身に着けさせるという機能が考えられるので、部活動の奨励を全否定するつもりはない。それでもやはり、本当に部活動を無条件に勧めていいものなのか疑問に思ってしまうというのが僕の本音である。

 少し長くなってしまったが、僕が言いたいのは、運動部の人たちについて、好きでやっている、楽しくてやっているという点については理解できるのだが、いったい彼らはどこに向かって何を目指しているのかがよくわからないということである。

 実際のところ、当人たちからすれば、目標の内容や到達点なんてものの実体はどうでもよくて、集団で何かに向かって努力できるシステムであればなんでも良いのかもしれない。そういったシステムの中で一番わかりやすいものが部活というものなのではないか。

青春の演出装置

 これまで部活を辞めた理由、組織が苦手だという話、部活を行う目的がわからないといったことについて書いてきた。

 僕の今までの記述を簡単にまとめると、世の運動部の人たちは、スポーツ選手になりたいわけでもなしに、どうして様々な拘束のある組織に属してまで、何年も努力を続けようと思えるのか、そしてその努力によってめざすべき到達点というものはなんなのか、部活動の意義とはなんなのだろう、といった感じである。

 それだけその競技に魅力があり、すること自体に意義があるのだろうか、ただ努力の過程自体が楽しく、努力の対象がほしいからなのだろうか、ほかにやりたいことが特にないからなのだろうか、何らかの集団に所属していたいからなのだろうか、就活などで好印象を与えたいからとかなのだろうか。

 色々考えたが、部活動の意義というものは、一つに定まるものだとも思わないが、以下に示すようなものなのではないかと今は考えている。

 僕は大学でとある運動部活をやることになった友人に、なぜ大学で部活をやろうと思ったのかを聞いたことがある。その際彼は「大学生活をダラダラして終わりたくないから」と言った。

 おそらく、ほとんどの人は部活をする理由を追求して考えたり、打算的になったりすることは無く、なんとなく学生生活を充実させたいと思っているのではないか。そして、部活動というものはそのための手段であり、その意義はいわば、青春を演出する舞台装置となることなのではないか、というのが僕の考えだ。

 勉強と部活の両立に励み、部活の諸費用を賄うためにバイトをし、部活の仲間と親交を深め、共に目標に向かって努力し、忙しいし大変なこともあるけど充実した生活を送る。そういった典型的な青春像を部活動は演出してくれるだろう。

 じゃあ自分はそういった生活を送りたいかと考えると、否であった。重ねて言うが、僕は部活動をしている人たちを馬鹿にするつもりは一切無い。ただ、学生生活を彩るために組織に迎合し、時間的な拘束を受け、どこへ向かっているのかわからないもののために努力するのは、僕には続けられないし、その過程を楽しむことはもうできないなと純粋に思った。

部活動なんてやってもやんなくてもいい

 こうして文章にまとめていく中で、僕は何も部活動というものをただ毛嫌いしているわけではなく、一定の利点や機能については認めていて、それでも理解しがたい点がいくつかあって納得がいってないということがわかった。

 よくよく考えてみると、僕は部活を途中で辞めたことについて後悔などしていないが、同様に部活をやっていたことについても後悔はしていなかった。やめてよかったと感じたこともあったが、確かに部活を通じて得たものや学んだこともあった。

 しかし、上記のことを踏まえてあえて言いたいのは、部活動なんて、やってもやんなくてもいいものであるということだ。

 部活動なんてものは所詮、人生を豊かにするための数ある方法のうちの一つでしかない。学生の間は、社会に出てからよりも多くの時間を自由に使うことができると思われる。僕らは何に時間を使ってもいいのだ。それなのに、多くの人が部活動という選択肢ばかりを結局選んでいるのは、ちょっともったいないなと思ってしまう。

 もし今部活をしている人で、部活動を続ける意味がわからなくなってしまった人や、部活よりもやってみたいことがあって、それが部活動による時間的拘束故に妨げられている人がいるのであれば、部活を辞めるということをぜひ検討してみてほしい。

 何事も頑張り続けることに意味があるなんて言葉は努力を正当化するためのまやかしであると僕は思う。そんなことよりも今やっていることが本当に楽しいのか、夢中になれるのかといったことの方がずっと重要なのではないだろうか。

【読書録0】そうだ、本を読もう。

 人生における後悔や、やっておけばよかったことなどは数えてみればたくさんあるのだが、僕の古くからのコンプレックスとして、今までちゃんと本を読んでこなかったことがある。自分自身、教養のある方だとは思わないし、自身の価値観や考え方にこだわり、凝り固まった頭をしている方だと思われる。

 もちろん、「本をよく読んでいる=教養がある」という図式が成り立つとは思っていないし、教養をつけるために本を読もうだなんて、いかにも凡人の思いつきそうな陳腐な考えであるとは自覚している。それでも本を読みたいと思ったのは、読書という行為が、価値観や考え方を更新するのに一番手っ取り早い方法だと思ったからだ。

 本ブログでは、読書によって知識や価値観、考え方のアップデートを図り、アウトプットとしての記録をつけていこうと考えている。基本的には一週間に1~3冊、年に100冊以上を目標に、ジャンルを問わず興味の向いた本を読んで、その内容や感想をまとめていきたい。

 また、雑記としてなんらかのトピックについて、その時点での自分の意見を述べ、僕から見た世界や自分の価値観といったものを表現したいと思っている。正直、他人の読書感想文なんか読んだところでちっとも面白くないと思うので、何か興味の持てる話ができたらと思う。

 以上をもって挨拶と決意表明とする。